Interlude 水平線のまま

(森下 由依)


 切迫早産。

 そう診断された日のことは、もう三ヶ月も前になる。


 「しばらく入院しましょう」


 その「しばらく」が、こんなに長くなるとは思っていなかった。


 由依の病室は四人部屋だった。

 同室の妊婦たちは、みな由依より状況が重い。

 持続点滴につながれ、ベッドの脇には点滴台が常に立っている。


 自分は――

 まだ、服薬管理だけで済んでいる。

 そう言われるたびに、少しだけ安堵して、

 同時に、居心地の悪さを覚えた。


 軽いほう。

 まだましなほう。

 けれど現実は、楽ではない。


 食事とトイレ以外は、基本的に横になったまま。

 体は常に水平を保つように言われている。

 張り止めの薬は、効いているのかいないのかわからないまま、副作用の動悸と手の震えだけを連れてくる。

 夜になると、その症状で胸がざわついて眠れない。


 天井を見つめながら、

 (安定期って、なに)

 そんな言葉が、頭の中をぐるぐる回った。


 ある日の午後。


 ベッドを少しだけギャッジアップして、テレビをつけていた。

 身体は起こしていない。

 ほんの、ほんの少し角度をつけただけ。


 それでも。

「体は起こさないでくださいね」


 カーテン越しに聞こえた看護師の声に、

 由依は反射的にリモコンを握りしめた。


「……すみません」

 口に出した瞬間、喉の奥がひりついた。


 怒られたわけじゃない。

 責められたわけでもない。

 ただ、

 自分の体すら自由にならない事実を、改めて突きつけられただけだった。


 その日も、午後の診察のため、看護師に車椅子を押してもらい、二階へ降りた。

 診察を終え、病棟へ戻る途中。


 吹き抜けホール近くのエレベーター前で、順番待ちをしていたときだった。


 ふと。

 耳に、音が届いた。


 ——ピアノ?

 雑音に紛れて、けれど確かに、旋律が流れてくる。

 由依は、はっとして顔を上げた。

 聴き覚えのある曲だった。

 静かで、けれど芯のある旋律。

 数小節聴いただけで、それがクララ・シューマンの《献呈》だとわかる。


(……懐かしい)


 昔、ピアノを習っていた。

 そして、この曲が好きだった。

 作曲家シューマンが、愛するクララのために書いた一曲。

 そして最後に、――。


 由依は、思わず付き添いの看護師に声をかけた。

「……すみません。この曲、終わるまで、少し待ってもらってもいいですか」

 看護師は一瞬驚いた顔をしたあと、にこりと笑った。

「もちろんですよ」


 エレベーターの前で、由依は目を閉じた。

 旋律が進む。


 そして——。

 待っていた音が、確かにそこにあった。  《アベ・マリア》の、あのフレーズ。

 その瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、すっと緩むのを感じた。

 荒れていた心の角が、ほんの少しだけ、丸くなった気がした。


「あのピアノは……?」

 曲が終わったあと、由依は小さく尋ねた。 

「うち、ホスピタルピアノがあるんです。

 時々、病院関係者のお孫さんが演奏ボランティアで来てくれて」

 看護師は、少し声をひそめて続ける。

「でも、その方、いつ来るかわからないし……

 ちょっとシャイなのか、誰かが近づくと演奏止めちゃうんですよ」

 由依は、思わず微笑んだ。

「ピアノ、午後二時から三時の間だけ開放してるんです。

 今日は、ちょうどラッキーでしたね」


 エレベーターの扉が開く。 

 車椅子を押されながら、病棟へ戻る廊下。

 由依の胸の奥には、

 さっきまでより、ほんのりとした温かさが残っていた。


 状況は、何も変わらない。

 お腹の中の不安も、消えたわけじゃない。

 それでも。

 胸の奥に溜まっていた重さが、少しだけ位置を変えた気がした。

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