第2章 向けられた気配 第5話 何も起きなかった昼
久しぶりに弁当を作れた。
光流はふと、今日は放射線科スタッフルームでお昼を食べようと思った。
理由は、はっきりしているようで、はっきりさせたくなかった。
今日、綾瀬がどのシフトなのかは分からない。
けれど、ここにいれば——少なくとも、お昼に顔を合わせることはない。
少し引っかかるものはあった。
自分から距離を取っている、その感覚。
それでも。
(……ホッとする)
そう感じてしまう自分がいるのも、また事実だった。
放射線科スタッフルームのドアを開ける。
中は静かで、数人がそれぞれの席で食事をしているだけだった。
不破は今日はいない。
存在を気にしなくて済む。
ミニバッグを持って空いている椅子に座り、弁当包みを広げる。
会話はない。
誰もこちらを気にしていない。
(……静かだ)
悪くない。
むしろ、楽だ。
誰かに名前を呼ばれることもない。
不用意な距離の近さに、戸惑うこともない。
それなのに。
おにぎりを一口食べたところで、光流はふと手を止めた。
(……悪いことは、何もしていないはずなのに)
胸の奥に、うっすらとした引っかかりが残る。
理由は分からない。
ただ、完全には割り切れない。
光流は小さく息を吐いた。
今は、考えすぎたくない。
ただ、落ち着きたいだけだ。
最近、家で泣いていない。
前までは、帰宅すると何も考えられなくなって、玄関でそのまま座り込むこともあったのに。
今は、泣かない。
だからといって、何かが解決したわけでもない。
静かになったぶん、
自分の内側が、かえってよく聞こえる。
(……何も起きないのは、楽だ)
でも、その「楽」は、ずっと続けていいものなのか分からなかった。
自分の昼休み終了10分前を知らせるスマホのタイマーが振動する。
光流は弁当を片づけ、椅子から立ち上がった。
胸の奥に、名づけられない感情を残したまま。
何も起きなかった昼。
それが、なぜか少しだけ、ほっとした。
その安堵が、あとで別の感情に変わるかもしれないことを、このときは、まだ知らなかった。
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