第2章 向けられた気配 第4話 濡れない距離
その日は、朝から空が重たかった。
午後に入ってから降り出した雨は、退勤の頃にはすっかり本降りになっていた。
更衣室を出て、窓ガラス越しに外を見た光流は、小さく息を吐く。
(……傘、持ってきてない)
天気予報を確認したはずだったのに。
スタッフ用玄関のポーチで、小さく息を吐く。
走れば、バス停までは何とかなる。
駅まではバスを使えばいい。
そう考えながら、玄関を出ようとした、そのとき。
「及川」
低く、落ち着いた声。
振り向くと、不破が立っていた。
黒い傘を手に、余計な表情のない顔でこちらを見ている。
「傘、ないのか」
「……あ、はい」
一瞬、言葉に詰まってから答える。
「じゃあ、傘化してやる」
「い、いえ、大丈夫です」
思わず即答した。
「駅まではバス使って行きますし、バス停までは走って行きますから」
「それでも濡れるだろ」
「……でも、そうすると先輩が濡れてしまいますし」
言い終わる前に、不破が小さく息を吐いた。
「かわいい後輩濡らすわけにはいかねぇんだよ」
一瞬、知らない単語を聞いたように思わずきょとんとしてしまった。
カワイイ――って、なんだっけ。
数秒のち、ようやく回路だけはつながって
「か……かわいくは……ないと思いますけど……」
と、光流の声が、わずかに裏返った。
「俺にとってはかわいいの」
さらっと。
本当に、何でもないことのように。
一瞬、言葉の意味を測りかねる。
理解するまで、ほんの少し時間がかかった。
(……かわいい?)
胸の奥が、遅れてざわつく。
その言葉が、自分に向けられるものだと認識した途端、頭の中が、うまく噛み合わなくなる。
(そんな要素、あったっけ)
❋❋❋
不破は、光流が言葉を探すように一瞬だけ視線を泳がせたのを見た。
その仕草が、自覚のないまま滲み出るものだと分かってしまって、思わず口元が緩む。
——ああ、やっぱり。
俺にとっては、かわいいのに。
❋❋❋
自分の中のどこを探しても、見当たらない言葉だった。
ふっとわき起こった熱をごまかすように、光流は慌てて首を振った。
「い、いえ……やっぱり大丈夫です」
「そうか」
不破は無理に引き止めない。
一拍置いてから、言った。
「じゃあ、バス停まで一緒に行くか」
そう言って、傘を広げる。
ごく自然な動作で、光流の方へ差し出した。
「ほら」
「……あ、はい」
断る間もなく、傘の下に入る。
傘をたたく雨の音が、二人に振り注いだ。
歩き出してすぐ、不破の肩が、わずかに濡れているのに気づく。
「……先輩、肩が……。じ……」
自分、と言いかけて、飲み込む。
「……私、やっぱり……」
不破は足を止めた。
「ん?」
一瞬考えてから、言う。
「じゃあ、こうするか?」
そう言って、ほんの少し距離を詰めた。
触れるか、触れないか。
そのぎりぎり。
光流の頬が、熱を持つ。
(……近い)
でも、不破はそれ以上近づかない。
ただ、雨が当たらない位置を作っただけだった。
そのまま、二人並んで歩く。
やがて、屋根のあるバス停に着く。
不破は足を止めると、傘を差したまま、光流を見た。
「風邪ひくなよ」
それだけ言って、軽く手を上げる。
「お疲れさん」
そうして、不破は傘を差したまま雨の中へ歩いていく。 黒い背中が、静かに遠ざかっていった。
光流は、バス停の屋根の下で、しばらく動けなかった。
(……今のって。なんだったんだろう)
答えは出ない。
ただ、胸の奥に残った熱だけが、なかなか引かなかった。
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