第2章 向けられた気配 第3話 呼び方

 また、ある日の昼休み。


 いつものように、光流は人の少ない職員用の休憩スペースにいた。


 紙袋を膝に置き、黙々と箸を進める。


「お疲れ様です」


 声に、肩がわずかに揺れる。

 顔を上げると、綾瀬が立っていた。


「……お疲れ様です」


「隣、いいですか?」


 一瞬だけ迷ってから、光流は小さく頷く。

「……どうぞ」


 綾瀬は「ありがとうございます」と言って腰を下ろした。


 その距離は、ここ最近で慣れたものになっている。

 しばらく、無言。

 聞こえるのは、空調の音と、遠くの足音だけ。


「今日は、ちょっと静かですね」

 綾瀬が、何気なく言う。

「……うん。人少ない」

「助かりますよね。昼休みくらい、こういうのがいい」

 光流は、小さく息を吐いた。

「……わかる」

 それだけで、会話は途切れる。

 でも、不思議と居心地は悪くなかった。


 食事を終え、紙袋を畳む。


 立ち上がるタイミングが、また自然と重なった。

「……じゃあ」

 光流がそう言うと、綾瀬は少しだけ言いよどむように視線を落とした。


「……あの」


 呼び止められて、光流は振り返る。

「なに?」


 綾瀬は、首の後ろに手をやり、少し照れたように笑った。

「今更なんですけど」


「?」


「そういえば俺、及川さんより年下ですよね」


「……そうだね」 


「じゃあ、及川“先輩”って呼んだ方がいいのかなって」


 思わず、光流は目を瞬かせた。

「ほんとに今更だね」

 そう言って、少し考える。 


「……なんでもいいよ」


 すると、綾瀬の目が、わずかに明るくなった。

「じゃあ」


 一拍、置いてから。


「俺、光流さんって呼びたいです」


 一瞬、思考が止まる。

(……そっち?)


 胸の奥が、かすかにざわついた。


 けれど、それを表に出す前に、言葉を選ぶ。

「……いいけど」


 そして、きちんと線を引く。

「業務中は、苗字でお願いね」


 綾瀬は、すぐに頷いた。

「わかってますって」

 にかっと、屈託のない笑顔。

 それ以上、踏み込んでこない。


 理由も、意味も、説明しない。


「じゃ、午後も頑張りましょう。光流さん」 


 そう言って、綾瀬は嬉しそうに手を軽く振り、廊下の向こうへ消えていった。


 残された光流は、その場に一瞬立ち尽くす。


(……光流、さん)

 心の中で、もう一度繰り返される。


 午後の業務。

 モニターを見つめながら、ふと、その呼び方が頭をよぎる。


(ただの呼び方、だよね)

 年下で。

 距離感がうまくて。

 人懐っこいだけ。


 そう思おうとして、思考を止める。

(……考えるな)

 考えるほど、余計なものが入り込む。


 業務を終え、更衣室へ向かう途中。

 まだ人の行き交う廊下ですれ違った綾瀬が、いつもの調子で会釈をする。


「お疲れさまです、及川さん」


 苗字呼び。

 業務中の声。


 それに、なぜか少しだけ、ほっとする自分がいた。


 帰り道。

 駅へ向かう足取りは、いつもと同じはずなのに。

(……名前で呼ばれるの、久しぶりだったな)

 理由は考えない。

 意味づけもしない。

 ただ、その音だけが、静かに残っていた。

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