第2章 向けられた気配 第2話 迷惑じゃなかったら

 それから、何日か。


 昼休みに、綾瀬と隣になることが増えた。


 約束はしていない。

 たまたま、が続いただけだ。


 晴れた日は外のベンチ。

 雨の日は、人の少ない職員用の休憩スペース。

 どちらも、特別な場所じゃない。


 会話も多くない。

 天気の話。

 仕事の話。

 それだけ。


 ある日。

 綾瀬がぽつりとこぼした。

「俺、昼休み、ここに来るようになったの最近なんです」

「……そうなの?」

「はい。前は、食堂ばっかりで」

「……混むでしょ」

「混みますね。あと、疲れます」


 その言い方が、少しだけ苦笑い混じりで。    

 光流は、ほんのわずかに口角を上げた。

「……わかる」

 その一言で、会話は終わった。

 でも、十分だった。


 食べ終わり、立ち上がるタイミングが、自然と同じになる。


「……じゃあ」

 光流がそう言うと、綾瀬は少し考えるような間を置いてから、少しだけ視線を落とした。

 何か言いかけて、言葉を選んでいるようだった。


「及川さん」


「なに?」


「……俺」


 一拍、置いて。

「俺、及川さんの隣にいると、落ち着くんです」


 光流は、言葉を失った。


 胸の奥が、わずかに揺れる。

 でも、その揺れに名前をつける前に、思考が割り込む。


(……)


 そうだ。

 年下だし、距離感がうまいだけ。

 誰にでも、ああいうふうに接する人なんだ。


(……さすが、看護師だな)

 そう思うことで、心が落ち着く。


「だから……迷惑じゃなかったら、また一緒に食べませんか」

 押しつけるでもなく、答えを急かすでもなく。


 ただ、まっすぐだった。


 光流は、しばらく黙ってから、小さく息を吐く。


「……迷惑じゃ、ないけど」

 それだけ答えた。


 綾瀬は、にかっと笑った。

「よかった」


 それ以上、何も言わない。

 踏み込まない。

 期待も、要求もしない。


 その距離が、光流には、ちょうどよかった。


 午後の仕事。

 CT室の待機時間。

 防護扉の前で、ふと、昼休みの声がよみがえる。


――隣にいると、落ち着く。

(……落ち着くって)

 どういう意味で言ったんだろう。

 すぐに、首を振る。

(考えるな)


 綾瀬は人懐っこくて、さわやかで。誰にでも優しい。患者と一緒にいるところをたまに見かけるが、その患者はたいてい穏やかな笑顔だ。

 自然な距離感がうまい。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 なのに、胸の奥に、じわりと残る。


 帰宅途中、駅のホームでも、また思い出す。

(なんで、今さら……)

 考えてしまう自分が、情けなくて。

 少し、嫌だった。


 家に着き、鍵を開ける。

 いつもの部屋。

 いつもの静けさ。


「……」

 小さくため息をつき、靴を脱いだ。


 今日は、ピアノには向かわなかった。

 代わりに、ベッドに腰を下ろす。


 天井を見つめながら、もう一度だけ思う。

――隣にいると、落ち着く。


 意味は、考えない。

 考えた自分を、責める。

 それでも、その言葉は、

 確かに、光流の中に残っていた。

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