第2章 向けられた気配 第1話 残った温度
光流は、帰宅すると張り詰めた糸が切れて涙が溢れる日が続いていた。
自分が、憎い。
仕事中は、なんとか保っている。
ユニフォームを着て、決められた動きをして、必要な言葉だけを使っている間は、まだ大丈夫だった。
でも、玄関のドアを閉めた途端、だめになる。
靴を脱ぐ途中で、肩が震え、息が詰まる。
気を紛らわせようと、電子ピアノの前に座ることもあった。
自己否定の中でも唯一「好き」が残っている鍵盤の前では、少しは頭が静かになる気がして。
けれど、指が勝手に選ぶ曲は、いつも同じだった。
ショパンの《別れの曲》。
弾き終わるころには、決まって視界が滲む。
最後の和音が消えるのを待つ間すら、苦しくて仕方がない。
(……ややこしい)
自分のことを、そう思う。
バイセクシャルで。
中性的な外見で。
どこにもきっぱり属せない自分。
そして、失った存在。
全部が、うまくかみ合わないまま、胸の奥に溜まっていた。
とある夜。
睡眠不足がたたって、ピアノの前に座ったまま、涙を浮かべて眠ってしまった。
翌朝、目を覚まして、ふと鏡を見る。
(……腫れてない)
泣いたはずなのに、思ったほど目は腫れていなかった。
そこで、光流は気づく。
泣いても、目をこすらなければ、腫れないのだと。
それからは、生活は相変わらずぐちゃぐちゃでも、見た目だけは、どうにか整えてやり過ごすようになった。
ホスピタルピアノには、行っていない。
「――光流。うちの病院のピアノ、よかったらたまに、弾いてくれないか」
昔言われたことのある祖父の言葉が、ふと頭に浮かぶこともあった。
以前は、月に数回は続けてきた。
——でも今は、とても行ける気分じゃない。
❋❋❋
職場では、相変わらずだった。
昼休みは、なるべく一人で過ごす。
晴れていれば、病院敷地の端にある外のベンチ。
雨の日は、あまり人が立ち寄らない職員用の休憩所。
誰とも、必要以上に話さなくていい場所。
その日も、紙袋を膝に置き、黙って昼食を取っていた。
そこに、声がかかった。
「及川さん、お久しぶりです」
顔を上げると、看護師の綾瀬が立っていた。
「隣、いいですか?」
一瞬、断ろうとして――言葉が出ない。
「……どうぞ」
綾瀬は、少しだけ嬉しそうに隣に座った。
「ひなたぼっこしながらお昼って、いいですね」
「……そうだね。放射線科、基本窓ないから」
ぽつ、ぽつ。
それだけの会話。
なのに、不思議と疲れなかった。
気まずさも、なかった。
食べ終わると、綾瀬は立ち上がる。
「じゃ、午後も頑張りましょう」
それだけ言って、去っていく。
引き留める言葉も、次の約束もない。
光流は、少しだけ、胸の奥に残った温度を感じていた。
ただ、その温度が何なのか、考える余裕はなかった。
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