第1章 傷の余韻 第3話 守る線

 忘年会は、滞りなくお開きになった。

 参加者たちはそれぞれに声を掛け合いながら、会場を後にしていく。


 綾瀬は、コートを羽織りながら全体を見渡した。


 忘年会が終わっても、及川光流の姿は、最後まで会場に戻らなかった。

 それが、綾瀬には妙に引っかかっていた。


 始めは確かにいた。

 開始直後、同僚に手招きされて席についたのも見ている。


 途中から、ちらちらと視界の端で追っていた。

 無理に近づきはしなかったが、気配だけは感じていた。


 それが、ふっと消えた。


(やっぱり、帰ったのかな……)


 理由を考えかけたところで、不破がこちらを見ていることに気づく。


「綾瀬」


 名前を呼ばれ、綾瀬は少しだけ背筋を伸ばした。


「ちょっといいか」

 不破は、いつもの調子のまま視線で会場の外を示す。


「はい」


 短く答え、後を追った。


        ❋❋❋


 通路に出ると、宴会場のざわめきは一気に遠のいた。


 不破は壁際で足を止め、腕を組む。


「及川のことなんだけどな」


 その名前に、綾瀬の表情がわずかに引き締まる。

「……途中から、いませんよね」


「ああ。帰った」

 即答だった。


「体調、あんまり良くなさそうだった」


 綾瀬は、ほんの一瞬だけ目を見開く。


「……そうなんですか」


 声が、自然と低くなる。


「無理してた。見りゃわかるレベルでな」


 綾瀬は唇を結び、視線を落とした。


「あ……」


 それ以上言葉にできず、視線が泳ぐ。


 不破は、それを確認してから、少し間を置いた。


「……イブの日のことだ」


 綾瀬は、息を止めたように動きを止める。

「……やっぱり、うまくいかなかったんですね」


 今度は、はっきりとした揺れが声に混じった。


 不破は、短く頷く。

「たぶんな」


 一瞬、胸の奥が緩む感覚が走る。

 それを自覚した綾瀬は、すぐに視線を逸らした。

「……すみません」


 不破は、その反応を責めない。

「俺は言う義理があると思ったから伝えた」


「……」


「クリスマス終わるまでは、手ぇ出さないって約束したろ。俺も、お前も」


 綾瀬は、静かに頷く。


「だから、もう止めない」


 その言葉に、綾瀬が顔を上げる。


「正直、おもしろくはねぇけどな」

 不破は苦笑した。


「ただ」


 声のトーンが、少しだけ低くなる。

「今の及川は、かなりギリギリだ。仕事してるのが、やっとって感じだ」


 綾瀬は、無言で聞いている。


「お前がこれからどう動くか、俺は口出ししない。……でもな」

 不破は、綾瀬をまっすぐ見た。


「配慮だけは、忘れるな。追い詰めるような真似は、するなよ。絶対に」


 しばらくの沈黙。


 やがて、綾瀬が小さく息を吐いた。


「……わかってます」


 そして、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「自分の気持ちを優先するだけなら、簡単です。でも、それで及川さんが壊れるなら……それは、違う」


 視線を上げ、不破を見る。


「ちゃんと、人として向き合います。逃げ場がなくなるようなことは、しません」


 一瞬、言葉に詰まり、それでも続けた。


「……好きだからこそ、です」


 不破は、その顔を見て、わずかに口角を上げた。

「そう言えるなら、いい」


 それだけ言って、背を向けた。


「俺から言えのるは、ここまでだ」


     ❋❋❋


 綾瀬は、その場にしばらく立ち尽くしていた。


 ――うまくいかなかった。


 その事実は、胸の奥で確かに熱を持つ。

 でも同時に、

 今日の及川の顔が、頭から離れなかった。


 笑っていた。

 でも、あれはいつもの笑顔じゃなかった。


(……ちゃんと、見ろよ)

 不破の言葉が、静かに響く。


 綾瀬は、拳をきゅっと握った。


(俺は、逃げない)

 浮かれない。

 急がない。

 でも――諦めもしない。


 その決意だけを胸に、

 綾瀬は夜の廊下を歩き出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る