第1章 傷の余韻 第2話 触れない距離

 イブから何日も経ってない後日。職場の忘年会が開かれた。

 会場は、病院規模に見合った大きな宴会場。


 長机がいくつも並び、白衣やユニフォームの代わりに私服姿の職員たちが集まっている。


 光流は、開始時刻の少し前に会場へ入った。


 目立たないように、でも遅刻にはならないように。

 そして、人とあまり喋らなくてもいいように。

 いつもの癖だ。


「あっ、及川さん! こっちこっち」


 同僚の声に手招きされ、空いている席に腰を下ろす。


 笑顔を作る。

 外向きの、そつのないもの。


 院長の挨拶。

 乾杯。

 グラスが触れ合う音。


 酒を口に運び、相槌を打ち、適当に笑う。


 身体は、ちゃんとそこにある。


 ――心だけが、少し遅れてついてきていない。


 普段より、飲むペースが早いことに、光流自身も気づいていた。

 気づいていて、止められなかった。


 しばらくして、そっと席を立つ。

 誰にも声をかけず、会場を抜ける。


     ❋❋❋


 不破は、宴会場の隅からその背中を見ていた。


(……やっぱりな)


 表情は崩していない。

 歩き方も、いつも通り。

 けれど、どこか無理をしているのがわかる。


 この数ヶ月で、及川光流は変わった。

 もともと性別がわかりにくく、存在感も薄かった後輩が、

 ある日を境に、目を引くようになった。


 美容院帰りの最初の日。

 職場が、そして自分もざわついたのを、不破は覚えている。

 誰もが一瞬、振り返る。

 男か女かわからない――いや、どちらでもいいと思わせるほど、

 今は、はっきりとかっこいい。


 だからこそ、注目も集まる。

 だからこそ、疲れる。


 不破は、何でもない顔をして席を立った。


     ❋❋❋


 外は冷えていた。

 宴会場の裏手にあるベンチに、光流は一人座っていた。


 背中を丸め、指先をぎゅっと握りしめている。

 肩が、わずかに上下していた。


「……飲みすぎたか?」


 隣に腰を下ろし、不破が声をかける。


 光流は一瞬だけ肩を跳ねさせ、それから、いつもの笑顔を向けた。


「いえ、大丈夫です」


 その声は、少し震えていた。


(嘘だな)


 不破は、あえて突っ込まない。


「今日は、普段よりハイペースだったな」


 光流は視線を落としたまま、曖昧に笑う。


「……そう、かもしれません」


 冷たい空気の中で、息が白くなる。

 光流の呼吸は、整いきっていなかった。


 少しだけ、間を置いて、不破は言った。


「……イブの日。

 人の視線に慣れなきゃいけないって言ってたろ。

 あれ、頑張れたのか?」


 光流の身体が、びくりと強張る。


 一瞬、何かを言いかけて――

 それでも、口元だけを緩めた。


「頑張れたんですけどね」

 指先が、ぎゅっと握られる。


「でも……なんていうか……」

 その先が、続かない。


「無理に言わなくていい」

 不破は、すぐに遮った。


「忘年会も、戻らなくていい。

 腹痛くして帰ったって言っとく」


「え……」


「前、よく腹押さえてただろ。

 注目されすぎて」

 ふっと、軽く笑う。


「放射線科の連中なら知ってる。

 誰も何とも思わねぇよ」


 そして、少しだけ間を置いて。


「なんてったって――お前、かっこいいからな」


 光流は、何も言えなかった。


 唇がわずかに震え、視線が落ちる。

「……すみません」


 その一言だけが、絞り出される。


 不破は立ち上がった。

「風邪ひくなよ」


 それだけ言って、会場へ戻る。

 背中越しに、光流の小さな息遣いが聞こえた。


     ❋❋❋


 不破は、会場に戻りながら思う。

(……もう、放ってはおけねぇな)


 それが、優しさなのか。

 それとも、限界なのか。


 自分でも、まだはっきりとはわからなかった。

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