第8章:消えた写真
昨夜の、あの湿り気を帯びた啜り泣きのような音が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
朝の光が窓から差し込んでも、私の心は少しも晴れなかった。
鏡に映った自分の顔は、驚くほど土気色(つちいろ)で、目の下には深い隈ができている。
私は冷たい水で何度も顔を洗い、無理やり意識を覚醒させた。
隣の部屋――美咲の部屋は、廊下から見る限り、何の変化もなかった。
扉には重々しい鍵がかけられ、人の気配は一切しない。
それでも、昨夜確かに聞いた「音」は、私の妄想などではないと確信していた。
――証明が必要だ。
美咲がここにいたこと。
私たちが一緒に笑い、時間を共有していたこと。
私の記憶だけではない、客観的な「証拠」がなければ、この狂気に飲み込まれてしまう。
私は制服のポケットから、スマートフォンを取り出した 。
指先が微かに震えている。
画面をスワイプし、写真管理アプリのアイコンをタップした。
そこには、学院での二年間が詰まっている。
何気ない昼休みの空、廊下の影、そして友人たちとの何枚もの記念写真。
「……あった」
私は、数ヶ月前に行われた春の散策行事で撮った集合写真を探し出した 。
クラス全員で、学院のシンボルである大時計塔を背に撮った一枚だ。
あの時、美咲は私のすぐ隣にいた。
「彩花、もうちょっと寄ってよ」
そう言って、彼女の肩が私の肩に触れた感触を、私は今でもはっきりと覚えている。
美咲は少し照れくさそうに、けれど幸せそうに微笑んでいたはずだ。
私は、震える指でその画像を表示し、ピンチアウトして拡大した。
「……え?」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
そこに映っていたのは、私の記憶とは似て非なる「現実」だった。
写真の中で、私は一番端に立っている。
私のすぐ隣には、誰の姿もない。
そこには、不自然なほどの「空白」だけが横たわっていた 。
いや、空白という言葉すら生ぬるい。
本来、美咲が立っていたはずの場所には、背景の石造りの壁が、ぐにゃりと歪んだように引き伸ばされて埋め尽くされている。
まるで、最初からそこに誰もいなかったことを証明するために、世界が慌ててキャンバスを塗り潰したかのような、悍(おぞ)ましいまでの不自然さ。
「そんな……嘘でしょ……」
私は必死に他の写真も漁った 。
図書室で勉強していた時の写真。
文化祭の準備で、一緒に看板を描いた時の写真。
どこにも、美咲の姿はなかった 。
どの写真も、彼女がいたはずの場所だけが、奇妙な欠落となって残されている 。
ある写真では、空中に浮いたジュースの缶だけが写り、またある写真では、誰の手ともつかない指先だけが、私の肩のあたりにうっすらと残像のように残っている。
彼女の存在そのものが、デジタルなデータからも、物理的な記録からも、組織的に「消去」されている。
背筋を、氷のような冷たさが駆け抜けた。
これは、単なる「忘れっぽい」といった人間の生理的な忘却ではない。
もっと巨大で、意思を持った「何か」が、この学院全体を書き換えている。
私はスマートフォンの電源を落とし、ベッドの上に放り出した。
暗転した画面に、怯えた自分の顔が映る。
今、美咲を覚えているのは、この広い世界で私一人だけなのかもしれない。
陽菜たちのあの無関心な笑顔。
教師の機械的な告知。
そして、この消えた写真。
全てがつながり、一つの巨大な「闇」となって、私の足元から這い上がってくる。
もし、このまま私が彼女のことを証明し続けられなくなったら。
もし、私自身の記憶までもが、この写真のように「書き換え」られてしまったら。
その時、美咲は本当に、この世から消えてしまう。
私は強く拳を握りしめた。
手のひらの中で、勿忘草の栞がカサリと音を立てる。
たとえ記録が消えても、この痛みだけは本物だ。
この胸のざわつきだけは、誰にも上書きさせない。
私はふらつく足取りで、部屋の扉を開けた。
霧は昨日よりもさらに深く、寄宿舎の廊下を白く染め上げている。
もはや、一人で抱え込める段階は過ぎていた。
誰か、この異常に気づいている人間はいないのか。
この「世界からの排斥」に抗う術を知っている者はいないのか。
私は、縋るような思いで、重い足取りを教室へと向けた。
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