第7章:寮の夜
聖ルナリア女学院の夜は、昼間よりもずっと深く、そして静かだ。
校舎から少し離れた場所にある生徒寮は、夜になると周囲の森から立ち上がる冷気と、消えることのない薄い霧に包まれる。
夕食を終えた後の談話室は、寮の中で最も「日常」が色濃く残る場所だった。
備え付けの大型テレビからは、都心の喧騒を伝えるバラエティ番組の騒がしい音が流れている。
都会の流行、華やかなアイドル、無責任な笑い声。
それらは、この閉ざされた学院の静寂とは対極にあるもので、だからこそ生徒たちは縋るようにその光を見つめていた。
テレビの前のソファには、陽菜(ひな)を中心としたクラスメイトたちの輪ができていた。 彼女たちは、画面の中の出来事に一喜一憂し、時折弾けたような笑い声を上げている。
「ねえ、今の見た? あのお笑い芸人、最高に面白い!」
陽菜が屈託のない声を上げ、隣に座る友人の肩を叩く。
その光景は、どこからどう見ても、平和で微笑ましい女子寮のひとコマだった。
昨日、美咲という一人の少女がこの場所から消えたことなど、誰も、一瞬たりとも思い出していないかのようだった。
私は、その賑やかな輪から少し離れた窓際の小さな椅子に座り、膝の上に厚手の一冊の本を広げていた。 文字を目で追ってはいるものの、その内容は全く頭に入ってこない。
私の指先は、ページの端を何度もなぞり、時折、ポケットの中にある「あのメモ」の感触を確認していた。
――みつけないで。
――ここにいる。
美咲が残した矛盾した言葉が、呪文のように私の頭の中で繰り返される。
テレビの笑い声が大きくなるたびに、私の中の孤独感は鋭く研ぎ澄まされていった。
美咲が言っていた「人が壁に見える」という言葉の意味が、痛いほどによく分かる。
楽しそうに笑う陽菜たちの背中が、今は越えられない高い絶壁のように私を拒絶している気がした。
「彩花(あやか)もこっちおいでよ。そんな難しい本読んでないでさ」
陽菜が不意に振り返り、私に声をかけた。
その瞳には、一点の曇りもない善意が宿っている。
彼女には、悪意も嘘もない。
ただ、本当に「忘れて」しまっているのだ。
「……ううん、私は大丈夫。この章、読み終えちゃいたいから」
私はぎこちない笑みを返し、再び本に目を落とした。
陽菜は「ふーん、真面目だね」とだけ言って、すぐにまたテレビの話題に戻っていった。
その切り替えの早さが、今の私には酷く恐ろしかった。
夜十時。
消灯を告げるチャイムが、館内に重々しく響いた。 その音を合図に、談話室の賑わいは魔法が解けたように消え、生徒たちは各々の部屋へと散っていく。
さっきまで明るく照らされていた空間が、マスタースイッチの切り替わる音とともに、深い闇と非常灯の緑色の光に支配された。
私は自分の部屋へ戻り、ナイトランプの小さな明かりだけを頼りに身支度を整えた。
パジャマに着替え、ベッドに潜り込む。
けれど、眠りにつけるはずもなかった。
学院の夜の静寂は、まるで生き物のようだ。
建物のきしむ音、風が窓を叩く音、そして自分の鼓動の音。
それらが全て、何かの予兆のように聞こえてくる。
……ガタッ。
不意に、隣の部屋から物音が聞こえた。
心臓がドクリと大きく跳ね、私は息を止めて耳を澄ませた。
隣の部屋――そこは、美咲の部屋だった。
彼女が「転校」したとされる今、そこは無人のはずだ。
寮の管理人が鍵をかけ、清掃も済んでいるはずの空き部屋。
……ズズ、ズ。
何かが、床の上を引きずられるような音がする。
続いて、コンコン、と壁を軽く叩くような音が数回。
それは、夜の静寂を切り裂くには十分すぎるほど、はっきりとした音だった。
私は震える手でシーツを握りしめた。
美咲が、そこにいるの?
彼女は、壁の向こう側から私を呼んでいるのだろうか。
「ここにいる」という言葉を、音に変えて伝えているのだろうか。
立ち上がって、隣の部屋の扉を叩く勇気はなかった。
ただ、冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、私は朝が来るのをじっと待つことしかできなかった。
闇の中で、美咲の部屋からの物音は断続的に続き、やがて夜が深まるにつれて、かすかなすすり泣きのような声に変わっていった気がした。
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