第9章:図書室の主
教室という場所が、これほどまでに息苦しいものだとは思わなかった。
休み時間の快活な笑い声も、授業中のチョークが跳ねる乾いた音も、今の私には剥製にされた偽物の音のように聞こえる。
美咲が消え、彼女の痕跡が写真からさえも拭い去られたというのに、世界は何事もなかったかのように回転を続けている。
その滑稽なほどの「正常さ」に耐えきれず、私は放課後の喧騒を逃れるようにして、校舎の北端にある図書室へと向かった。
重厚な木製の扉を押し開けると、そこには外の世界とは隔絶された、濃密な沈黙が横たわっていた。
高い天井まで届く書架。
迷宮のように入り組んだ通路。
そして、何千冊もの古い本が放つ、独特の紙の匂いと微かな埃の香り。
私は大きく息を吸い込んだ。
この「古い本の匂い」だけが、今の私にとって唯一、信頼に値する現実のように思えた。
ここにある言葉たちは、誰かに書き換えられることもなく、何十年も前からそこにあり続けている。
霧に飲み込まれることも、誰かの都合で消されることもない、不変の避難所。
私は適当な書架の影に身を潜めるようにして、一冊の本を手に取った。
中身を読みたかったわけではない。
ただ、この沈黙の中に溶け込んで、自分の存在を消してしまいたかった。
窓から差し込む夕日は、図書室の中に長い影を落としている。
舞い上がる埃が光の粒となって、ゆっくりと踊るように落ちていく。
その光景をぼんやりと眺めていると、不意に、視線の端で何かが動いた。
図書室の最奥。
最も日が当たらない、窓際の角の席。
そこには、いつも決まった「主」がいることを、私は以前から知っていた。
月島圭(つきしま けい)先輩。
学年が一つ上の彼女は、学院内でも「変わり者」として有名だった。
いつも一人で、図書室のあの席に座り、およそ女子高生が手に取るとは思えないような分厚く難解な本に没頭している。
美しいけれど、どこか近寄りがたい無機質なオーラを纏った人。
彼女は今日も、私に気づく様子もなく、開いた本に目を落としていた。
細い指先が、時折、ページをめくる。
その動きさえも、計算された機械のように無駄がなく、洗練されていた。
……あんなに難しい本を読んで、彼女は何を探しているんだろう。
ふと、そんな疑問が頭をよぎった。
この学院の生徒たちは、みんな「幸せな日常」という役割を演じることに必死だ。
美咲のことを忘れ、何事もないフリをして、決まったレールの上を歩く。
けれど、あの先輩だけは、そのレールから少しだけ外れた場所に立っているように見えた。
私は吸い寄せられるように、彼女の座る席の方へと足を進めた。
一歩、足を踏み出すたびに、床の古い木材が低く軋む。
その音が、沈黙を乱す侵入者の警告のように響く。
彼女のテーブルの近くまで来た時、ふと、彼女の手元にある本が目に入った。
背表紙には、金文字で掠れた異国の言葉が並んでいる。
それは物語ではなく、この土地の歴史や伝承を記した、古い民俗学の文献のようだった。
「……何か用?」
不意に、透き通るような声が私を刺した。
顔を上げると、月島先輩が本から視線を外し、こちらをじっと見つめていた。
縁のない眼鏡の奥で、氷のように冷たく、けれど全てを見透かすような鋭い瞳が光っている。
「あ、すみません。……邪魔をするつもりじゃなかったんです」
私は慌てて視線を逸らそうとした。
けれど、彼女の視線は私を離さない。
まるで、私の背後に這い寄っている「影」を数えているかのような、不気味なほどの凝視。
「あなた、何かを『なくした』顔をしているわね」
彼女が静かに言った言葉に、心臓が跳ねた。
なくした。
そうだ。私は美咲をなくした。
写真から彼女の姿をなくし、記憶の拠り所をなくし、日常という名の安息をなくした。
「それは……」
言葉が喉まで出かかって、私はそれを飲み込んだ。
ここで話して何になる?
彼女だって、他の生徒たちと同じように「そんな子は最初からいなかった」と言うに決まっている。
「家庭の事情で転校した」と、機械的に答えるに決まっているのだ。
「いいえ、なんでもありません。失礼しました」
私は背を向け、逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
けれど、背後から聞こえてきた彼女の呟きが、私の足を釘付けにした。
「忘却は、慈悲ではないわ。それは、ただの捕食よ」
私は振り返った。
けれど、月島先輩はすでに再び本へと視線を戻していた。
彼女の横顔は、彫刻のように動かない。
捕食。
その言葉が、今の私の心に、抜き差しならない棘となって突き刺さった。
この学院の霧は、ただの天候ではない。
人々が美咲を忘れていくのは、ただの偶然ではない。
何かが、彼女を――そして私たちの記憶を、「食べて」いるのではないか。
私は、震える手でポケットの中の勿忘草の栞を握りしめた。
この「変わり者」の先輩なら、あるいは。
誰も信じてくれないこの狂気を、分かってくれるのではないだろうか。
図書室の窓の外では、夜の帳が降りようとしていた。
濃密な闇が、再び学院を飲み込んでいく。
私は決意した。
明日、もう一度ここへ来よう。
そして、彼女に全てを話そう。
たとえそれが、更なる絶望への入り口だったとしても。
図書室の古い本の匂いだけが、去りゆく私の背中を静かに見守っていた。
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