第6章:残された言葉

 放課後のチャイムが、ひどく間の抜けた音で校内に響き渡った。

 生徒たちが一斉に席を立ち、部活動や寮へと向かう足音が廊下に溢れ出す。

 その賑やかさが、今の私には酷く空虚なものに感じられてならなかった。

 私は、自分の席に座ったまま、周囲の熱気が引いていくのをじっと待っていた。

 陽菜(ひな)が「一緒に帰ろう」と誘ってくれたけれど、「少し図書室に寄っていくから」と嘘をついて断った。

 今の私には、彼女の屈託のない笑顔に向き合うだけの心の余裕がなかった。

 やがて、最後の一人が教室を出て行き、扉が閉まる。

 静寂が、澱(よど)みのように教室の隅々に溜まっていく。

 傾き始めた太陽の光が、窓から長く、赤い影を床に落としていた。

 私は立ち上がり、ゆっくりと、左斜め前の「空席」へと歩み寄った。

 美咲の机。

 昨日までそこにあったはずの、彼女の息遣いや体温。

 今はただ、磨き上げられた木肌が冷たく光を反射しているだけだ。

 クラスの誰もが「転校」という言葉で納得し、彼女の不在を日常の一部として受け入れている。

 けれど、私だけが、この空間にぽっかりと開いた穴に、吸い込まれそうな恐怖を感じていた。

「……何か、残ってないかな」

 私は周囲を気にしながら、そっとその机に触れた。

 指先から伝わるのは、無機質な木の冷たさだけだ。

 けれど、ここで諦めるわけにはいかなかった。

 夢の中で聞いたあの声が、ポケットの中の栞が、私を突き動かしている。

 私は意を決して、美咲の机の引き出しに手をかけた。

 ガタッ、と。

 静かな教室に、引き出しが滑る音が不自然なほど大きく響く。

 心臓が跳ね、思わず周囲を見渡した。

 誰もいない。

 ただ、夕闇が迫る教室の影が、少しずつ深まっているだけだ。

 引き出しの中は、驚くほど空っぽだった。

 教科書も、ノートも、消しゴムのカス一つ落ちていない。

 あまりにも完璧な清掃が、かえって彼女の存在を徹底的に「抹消」しようとする誰かの意志のように思えて、背筋が凍る。

 けれど、私は諦めなかった。

 引き出しの奥、指がようやく届くかどうかの隙間に、何かがあるのを感じた。

 爪を立てて、それを必死にかき出す。

 出てきたのは、小さく折り畳まれた一枚のメモ用紙だった。

 それは、学院の指定ノートの端を破ったような、不格好な断片。

 私は震える指で、その紙を広げた。

 そこに記されていたのは、二つの短い言葉だった。

「みつけないで」 「ここにいる」

 美咲の字だ。

 少し丸みを帯びた、けれどどこか芯の強い、見間違えるはずのない彼女の筆跡。

「……何、これ」

 私はその言葉を何度も反芻(はんすう)した。

 見つけないで。

 ここにいる。

 それは、あまりにも矛盾した言葉の羅列だった。

 隠れたいのか、それとも見つけてほしいのか。

 あるいは、ここにいること自体が、誰にも知られてはいけない禁忌(きんき)だというのだろうか。

 言葉の意味を考えれば考えるほど、思考は迷宮へと迷い込んでいく。

 私の心臓は、警鐘を鳴らすように激しく打ち鳴らされていた。

 

「ここにいる……って、どこに?」

 私は思わず、誰もいないはずの教室を見渡した。

 掃除用具入れの影、ロッカーの隙間、黒板の後ろ。

 美咲がどこかで、息を潜めて私を見ているのではないかという妄想が膨らむ。

 けれど、そこには誰もいない。

 ただ、夕日に照らされた埃(ほこり)が、空中に虚しく舞っているだけだ。

 ふと、メモの裏側に目が止まった。

 そこには、小さな押し花の跡のような、薄紫色のシミが残っていた。

 それは、私が持っている栞の勿忘草よりも、ずっと色が褪(あ)せているように見えた。

 彼女は、このメモをどんな思いで書いたのだろう。

 「転校」なんていう言葉では到底説明できない、暗く深い淵(ふち)に、彼女は今も囚われているのではないか。

 不意に、背後で扉が軋(きし)むような音がした。

「――っ!」

 私は弾かれたようにメモをポケットに押し込み、振り返った。

 けれど、そこには誰もいない。

 風が廊下の窓を叩いただけなのかもしれない。

 

 それでも、私はここに長居してはいけないという本能的な恐怖に駆られた。

 この教室そのものが、私を飲み込もうとする巨大な口のように思えてきたのだ。

 私は鞄(かばん)を掴むと、逃げるように教室を後にした。

 ポケットの中のメモが、まるでもう一つの心臓のように、ドクドクと脈打っているような気がした。

 美咲は、まだこの学院の中にいる。

 そして、彼女は助けを求めている。

 矛盾した言葉が残されたそのメモは、私の混乱を深めるだけだったけれど、同時に一つの確信を私に与えていた。

 この学院の「平和」は、偽物だ。

 その裏側には、決して触れてはいけない、どろどろとした闇が広がっているのだと。

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