第5章:屋上の約束
陽菜(ひな)の、あの空っぽな瞳が頭から離れない。
休み時間の賑やかな教室の中で、私一人だけが、底のない沼に足を取られているような感覚だった。
周囲の話し声や笑い声は、まるで厚いガラス越しに聞いているように遠く、現実味を欠いている。
私は逃げるように教室を飛び出した。
向かったのは、校舎の最上階、さらにその先にある屋上へと続く階段だ。
重い鉄の扉を押し開けると、そこには霧の混じった冷たい風が吹き抜けていた。
地上に溜まっていた濃密な霧は、高度を上げたここでは少しだけ薄らぎ、代わりにどこまでも続く灰色の空が世界を覆っている。
フェンスに歩み寄り、冷え切った金網を握りしめる。
その冷たさが、今の私には心地よかった。
目を閉じると、記憶の扉が静かに開く。
まだ霧がこれほど深くなく、美咲が当たり前のように私の隣にいた頃の記憶だ。
あれは、初夏に近い、午後のことだった。
――。
その日の屋上は、今日とは違って透き通るような青空が広がっていた。
風は柔らかく、遠くの山々から運ばれてくる草木の匂いが鼻をくすぐる。
放課後、私たちは先生に頼まれた雑用を早めに終わらせ、この場所へやってきた。
全寮制の窮屈な生活の中で、この屋上だけが唯一、空へと解放された自由な場所に思えたからだ。
美咲はフェンスを背にして、コンクリートの床にちょこんと座り込んでいた。
膝を抱え、遠くを見つめるその横顔は、陽光に透けて消えてしまいそうなほど儚(はかな)げだった。
「ねえ、彩花(あやか)」
美咲が不意に口を開いた。
私の名前を呼ぶ、鈴の音のような、涼やかな声。
「なあに?」
私は彼女の隣に腰を下ろした。
「……この学院って、綺麗だよね」
「うん、そうだね。歴史があるし、お庭も手入れされてて、お城みたい」
私は適当な相槌を打った。
けれど、美咲は私の言葉を肯定するわけでもなく、ただ静かに首を振った。
「綺麗すぎて、時々、怖くなるの。
規則正しくて、静かで、何もかもが完璧に管理されてて。
まるで、大きなオルゴールの中に閉じ込められているみたい」
美咲の視線は、眼下に広がる美しい校庭や、整然と並ぶ寮の建物に向けられていた。
そこには、制服を着た生徒たちが、蟻(あり)のように小さく動き回っている。
「オルゴール……?」
「そう。決まった曲を、決まった通りに演奏し続ける機械。
私たちも、その中の一部……歯車の一つなんじゃないかって、思っちゃうの」
彼女は少しだけ悲しそうに目を伏せた。
いつもの穏やかな美咲からは想像もつかない、切実な言葉だった。
私はかける言葉が見つからず、ただ彼女の細い指先をじっと見つめていた。
「ねえ、彩花。
……この学院、時々、人が『壁』に見えることがあるの」
「壁?」
問い返すと、美咲は視線を私に戻した。
その瞳は、何かを見通そうとするかのように鋭く、それでいて深い孤独に震えていた。
「そう。みんな笑ってて、優しくて、普通に話してる。
でもね、ふとした瞬間に、その向こう側が何もなくなっちゃうの。
いくら話しかけても、いくら手を伸ばしても、ただ冷たい壁に弾き返されるような……。
そこに人はいない。ただ、『クラスメイト』っていう役割を持った壁が立っているだけ」
彼女の言葉の意味を、その時の私は正確に理解できていなかったと思う。
多感な年頃特有の、少し背伸びをした不安なのだろうと、どこかで軽く考えてしまっていた。
「考えすぎだよ、美咲。
壁なんかじゃないよ。陽菜だって、他の子たちだって、みんな美咲のことが好きなんだから」
私がそう言うと、美咲は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから困ったような、寂しい笑顔を浮かべた。
「……うん、そうだね。彩花は優しいね」
美咲はそう言って、ポケットから小さな包みを取り出した。
それが、あの勿忘草の栞だった。
「これ、彩花にあげる。
もし……もしも私が、いつかその『壁』の中に飲み込まれて消えちゃっても。
これを持っていたら、彩花だけは私のこと、思い出してくれる?」
冗談めかした口調だったけれど、その瞳は真剣そのものだった。
私は、重い約束を託されたような緊張感とともに、その栞を受け取った。
「消えたりなんてしないよ。
でも、分かった。約束する。
私が、絶対に美咲を忘れない。何があってもね」
そう答えると、美咲はそれまでで一番晴れやかな笑顔を見せた。
その笑顔があまりに眩しくて、私は胸が締め付けられるような思いがした。
――。
目を開けると、冷たい風が私の頬を叩いた。
あの日、私が安易に交わした約束。
それが、今になってこれほど重い意味を持つことになるとは、夢にも思わなかった。
美咲は気づいていたのだ。
この学院を覆っている、正体不明の「何か」に。
人々から記憶を奪い、存在を消し去り、なかったことにしてしまう恐ろしいシステムに。
そして、彼女の予感は現実のものとなった。
彼女は今、その「壁」に飲み込まれてしまった。
陽菜も、先生も、世界そのものが彼女を排斥し、存在した事実さえも塗りつぶそうとしている。
私はポケットから、大切に持っていた勿忘草の栞を取り出した。
押し花にされた青い花弁は、あの日と変わらず、そこにある。
「……私だけは、壁にならない」
私は自分に言い聞かせるように、震える声で呟いた。
たとえ世界中の誰もが彼女を忘れたとしても、私の記憶の中にだけは、美咲が生きている。
あの時、彼女が見せた寂しげな横顔も、鈴の音のような声も、屋上で交わした約束も。
それだけは、絶対に奪わせない。
けれど、同時に恐ろしさも募る。
美咲の言っていた「壁」が、もし私自身の意識の中にも入り込んできたら?
もし、この栞を見ても何も思い出せなくなる日が来たら……?
霧が、再び足元から這い上がってくる。
灰色の沈黙が、屋上を、そして私という人間を飲み込もうと虎視眈々(こしたんたん)と狙っている。
私は、美咲が座っていたあの場所を見つめた。
そこにはもう、誰もいない。
ただ、風に揺れる空気だけが、彼女の不在を強調していた。
「美咲……どこにいるの?」
私の問いかけに、答えるものは何もない。
遠くで、次の授業の始まりを告げるチャイムが、弔いの鐘のように重く響き渡った。
私は栞を胸に抱きしめ、再びあの冷たい階段へと足を向けた。
孤独な戦いが、ここから始まろうとしていた。
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