第4章:思い出せない顔
一限目のチャイムが鳴り、教師が教室を去った後も、私は座席から動くことができなかった。
周囲では、何事もなかったかのように賑やかな休み時間の喧騒が始まっている。
ノートを貸し借りする声、昼食の約束をする笑い声、そして昨夜のテレビ番組の話。
そこには、一人の友人が消えたことへの戸惑いも、寂寥感も、これっぽっちも存在していなかった。
私は震える膝を抑えながら立ち上がり、前の席で楽しそうに友人と談笑している陽菜(ひな)のもとへ歩み寄った。
彼女は私の気配に気づくと、いつもの屈託のない笑顔を向けてくる。
「どうしたの、彩花? そんなに青い顔して」
陽菜の声はどこまでも明るく、それゆえに私の鼓動を狂わせた。
私は彼女の腕を、少し強い力で掴んでしまった。
「ねえ、陽菜……美咲のことなんだけど」
その名前を口にした瞬間、陽菜の表情が、まるで見知らぬ単語を聞いたかのように一瞬だけ硬直した。
いや、硬直というよりは、意識の焦点がどこか遠くへ飛んでしまったような、奇妙な空白。
「……ミサキ?」
陽菜は私の言葉を反芻するように呟いた。
そして、小首を傾げて、困ったような笑みを浮かべる。
「ああ、さっき先生が言ってた転校生の子のこと? それがどうしたの?」
転校生の子。
その他人事のような響きに、私は目眩(めまい)を覚えた。
「どうしたのって……昨日まで一緒にいたじゃない。三人で図書室に行ったり、中庭でお弁当を食べたりしたでしょう?」
必死に訴える私の言葉に、陽菜は「ええー?」と冗談を言われた時のような声を上げた。
「そんなに仲良かったっけ、私たち?
確かにクラスメイトだけど……三人でお弁当なんて、誰か別の友達と勘違いしてない?」
心臓が冷たい水に浸されたような感覚がした。
陽菜の瞳には、嘘や悪意の色は見えない。
彼女は本気で、美咲との親密な記憶を失っているのだ。
「そんなはずないよ。だって、美咲は私の親友で、陽菜にとっても……」
「うーん、そう言われると自信なくなっちゃうな。でもね、彩花」
陽菜は少し眉をひそめ、記憶の底を浚うような仕草を見せた。
「その子のこと思い出そうとしても……なんだか、霧がかかったみたいにぼんやりしちゃうんだよね。
顔、どんなだったっけ? 目は大きかった? 髪は長かった?」
陽菜の言葉に、私は息を呑んだ。
彼女の脳裏で、美咲の存在そのものが急速に薄れているのが分かった。
それは単なる「忘れ物」のような一時的な記憶の欠落ではない。
世界から彼女の痕跡が、一色ずつ丁寧に消されていくような、不可逆的な忘却だ。
「……思い出せないの? あんなに毎日一緒にいたのに」
「ごめんね、彩花。私、最近ちょっと疲れ気味なのかな」
陽菜は申し訳なさそうに私の手を握った。
その手の温もりさえ、今はひどく遠い世界の出来事のように感じられる。
私は教室を見渡した。
他の生徒たちも、誰も美咲の空席を気にしていない。
視界の端で、美咲の机が、まるでもう何年も前からそこにあった「ただの備品」であるかのように、背景に溶け込んでいく。
これが、最初の「忘却」の兆候だった。
恐怖が、冷たい汗となって背筋を伝う。
もしこのまま時間が過ぎれば、私自身の記憶さえも霧に飲み込まれてしまうのではないか。
美咲の笑顔も、彼女の癖も、あの切実な「助けて」という声さえも。
私は無意識に、スカートのポケットに手を入れた。
指先が、勿忘草の栞に触れる。
――私だけは、忘れない。
強く、強く栞を握りしめると、小さな花弁の感触が指先に突き刺さるような気がした。
それは、消えゆこうとする友人が、この世界に残した唯一の錨(いかり)のように思えた。
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