第3章:空席
朝の予鈴が鳴り響き、ざわついていた教室が少しずつ静まり返っていく 。
霧はまだ晴れず、窓の外は乳白色の闇に閉ざされたままだ 。
その白さは、窓ガラスを透過して教室の隅々まで侵入し、生徒たちの輪郭を曖昧にぼかしているように見えた。
私は自分の席に座り、無意識に左斜め前の席へと視線をやった。
そこは、彼女の席だ。
いつもなら、彼女は少し早めに登校して、お気に入りの文庫本を読んでいるはずだった。
けれど、そこには誰もいなかった。
机の上には教科書も筆箱もなく、ただ磨き上げられた木目が冷たい光を反射しているだけだ。
椅子は几帳面なほど深く机に差し込まれていて、まるで最初から誰も座っていなかったかのような、不自然なほどの「無」を主張していた。
胸の奥で、小さな棘が刺さったような痛みが走る。
嫌な予感が、霧のようにじわじわと心の中に広がっていく。
ガラガラと音を立てて、教室の扉が開いた。
担任の教師が教壇に立つ。
その表情はいつもと変わらず、淡々としていて、どこか機械的な冷ややかさを帯びていた。
「朝のホームルームを始める。席に着け」
出席を取る声が、静かな教室に響く。
名前を呼ばれるたびに、生徒たちが短く返事をする。
その日常的な光景が、今日に限っては、何かの儀式のようにひどく虚無的なものに感じられた。
そして、彼女の名前が呼ばれることはなかった。
教師は手元の名簿に一度だけ目を落とすと、顔を上げ、事務的な口調で告げた。
「急な連絡だが、美咲が転校することになった」
その言葉が耳に届いた瞬間、私の思考は真っ白に染まった。
転校。
そんな話、昨日まで一度も聞いていなかった。
美咲は私の親友で、私たちは毎日、放課後には将来のことや、他愛のない秘密を話し合っていたはずなのに 。
私は思わず、隣の席の陽菜(ひな)の方を向いた。
彼女も驚いているはずだ。美咲とは三人で一緒に過ごすことも多かったのだから。
しかし、陽菜の反応は私の予想とは正反対のものだった。
「……あ、そうなんだ。残念だね」
陽菜は、まるで「今日の給食のメニューが変わった」という報告でも受けたかのように、軽く頷いただけだった。
その表情には驚きも、悲しみも、微塵も浮かんでいない。
周囲のクラスメイトたちも同様だった 。
「へぇ、転校か。急だね」
「まあ、たまにあるよね、こういうこと」
教室のあちこちから漏れる囁き声には、何の感情も籠もっていなかった。
昨日まで同じ空気を吸い、共に笑い合っていた一人の人間が、唐突にこの場所から消えたというのに。
彼らの反応は、あまりにも「納得」しすぎていた 。
まるで、あらかじめ書き込まれたプログラムに従って、その事実を淡々と受け入れているだけのような――。
「……おかしいよ」
私の呟きは、誰の耳にも届かなかった。
私は、美咲のいたはずの空席を見つめ続けた。
窓から差し込む鈍い光が、主を失った机を不気味に浮かび上がらせている。
そこには確かに彼女がいた。
彼女の体温があり、声があり、笑顔があったはずだ。
それなのに、この教室にいる全員が、彼女の存在を霧の向こう側に追いやってしまおうとしている。
強烈な違和感が、吐き気となって私を襲った 。
美咲は本当に、自らの意志で転校したのだろうか。
あの夢の中で聞いた「助けて」という声は、何だったのか 。
「先生! 美咲さんは、どこに転校したんですか?」
私はたまらず立ち上がり、叫ぶように尋ねた。
教室中の視線が、一斉に私に集まる。
その視線は、好奇心に満ちたものではなく、何か「異物」を見るような、冷たく突き放すようなものだった。
教師は無表情のまま、私をじっと見つめた。
「詳しいことは聞いていない。家庭の事情だそうだ。それより、彩花、授業の準備を始めなさい」
それだけを言い残すと、教師は黒板に向き直り、チョークを走らせ始めた。
乾いた音が、静かな教室に響き渡る。
私は力なく椅子に座り込んだ。
膝の上に置いた手が、小刻みに震えている。
美咲がいない。
そして、誰もそのことを深く気にかけていない。
教室の中にまで入り込んできた霧が、私の足元から這い上がり、心臓を凍りつかせていく。
この学院の「日常」という名の薄皮一枚の下で、何かが決定的に壊れ始めている。
私は、震える手でポケットの中に忍ばせた勿忘草の栞を握りしめた。
その冷たさだけが、今、この狂気じみた静寂の中で、私が唯一信じられる現実だった 。
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