第2章:霧の朝
目覚まし時計の無機質な電子音が、冷え切った寝室に鳴り響いた。
私は重い瞼を持ち上げ、昨夜の悪夢の残滓(ざんし)を振り払うように深く息を吐き出す。
指先にはまだ、夢の中で強く握りしめていた勿忘草の栞の、あの硬く冷たい感触が微かに残っているような気がした 。
机の上に置かれたその栞は、朝日を浴びることもなく、薄暗い部屋の中でひっそりと息を潜めていた。
私はベッドから這い出し、重い足取りで窓際へと向かう。
カーテンを勢いよく開けると、そこには期待していたはずの光はなく、ただ「白」の世界が広がっていた。
深い、あまりにも深い霧だった 。
この山間に建つ私立聖ルナリア女学院において、霧は決して珍しい現象ではない。
湿った空気が山肌を撫で、寄港するように校舎を包み込む。
けれど、今朝の霧は、いつもとは何かが決定的に違っていた。
窓ガラスのすぐ向こう側から、世界が全て消去されてしまったかのような、不気味なほどの白。
庭園の木々も、遠くに見えるはずの礼拝堂の尖塔も、全てが厚いベールの向こう側に隠蔽されている。
それはまるで、私たちがこの学院という名の檻から出ることを、何者かが全力で拒んでいるかのようだった。
「……寒い」
独り言が、白く濁って部屋の中に溶けていく。
私は制服に着替え、冷たい水で顔を洗うと、逃げるように部屋を飛び出した。
寮の廊下は、いつものように規則正しい生活の音で満たされていた。
生徒たちの足音、扉が開閉する音、そして遠くで聞こえる朝食の準備の音。
それらの「日常」の音が、昨夜から私の胸に巣食っている正体不明の不安を、少しずつ削り取ってくれることを期待しながら歩を進める。
寮の玄関を出ると、さらに濃密な霧が私の身体を包み込んだ 。
湿り気を帯びた空気が肺の奥まで入り込み、内側から冷やしていく。
視界は数メートル先さえ覚束ない。
足元の石畳だけを頼りに、校舎へと続く道を進む。
「あ、彩花(あやか)! おはよー!」
霧の向こう側から、聞き慣れた明るい声が届いた。
声の主を探して目を凝らすと、白い闇の中からひょっこりと、親友の陽菜(ひな)が姿を現した 。
彼女はいつものように、教科書を胸に抱え、屈託のない笑顔を浮かべている 。
「おはよう、陽菜」
彼女の姿を見た瞬間、凍りついていた私の心が一気に溶け出すような感覚があった。
陽菜の笑顔は、この閉ざされた世界において、唯一無二の現実的な光に見えた。
「またすごい霧だね」
陽菜が顔を寄せ、真っ白な校庭を見渡しながら言った 。
彼女の髪の毛先には、霧が結んだ小さな雫がいくつも宝石のように輝いている。
「うん、何も見えないね」
私は短く答え、彼女の歩調に合わせて歩き出した 。
「ほんと、びっくりしちゃう。これじゃあ、教室まで辿り着けるか怪しいよ。ねえ、彩花。もし私が霧の中に消えちゃったら、ちゃんと探してね?」
陽菜は冗談めかして笑う。
けれど、その言葉は今の私の耳には、あまりにも不吉な響きを持って届いた。
夢の中で見た、霧の中に消えていった美咲の後ろ姿が脳裏をよぎる 。
「……そんなこと、言わないでよ」
私の声は、自分で思うよりもずっと震えていたらしい。
陽菜は少し意外そうな顔をして私を見つめ、それから優しく私の腕を組んだ。
「ごめんごめん、冗談だって。彩花は真面目だなぁ」
陽菜の体温が、制服の袖越しに伝わってくる。
その温もりに安堵しながらも、私の視線は再び周囲の霧へと向けられた。
この学院は、美しい。
歴史ある石造りの校舎、手入れの行き届いた庭園、そして厳しい校則に守られた静謐な時間。
けれど、その美しさは同時に、外の世界との繋がりを完全に断絶した「閉鎖性」の上に成り立っている 。
一度霧に包まれれば、ここが山の中なのか、あるいは異世界の果てなのかさえ分からなくなる。
私たちは今、この平和な日常という名の揺り籠の中にいる 。
けれど、その底には、私たちが気づかないうちに少しずつ広がっている「亀裂」があるのではないか。
美咲が夢の中で言った「助けて」という言葉 。
手のひらの勿忘草。
そして、この異様な霧。
それらが全て、一つの不吉な未来へと繋がっているような予感を、私はどうしても拭い去ることができなかった。
校舎の入り口が見えてきた。
霧の中から浮かび上がる重厚な扉は、巨大な怪物の口のように開いている。
生徒たちが次々とその中へと吸い込まれていく。
「さあ、行こう。今日の小テスト、彩花にノート見せてもらわなきゃ!」
陽菜が私の腕を引き、軽い足取りで階段を登っていく。
私は彼女の明るさに引きずられるようにして、建物の中へと足を踏み入れた。
この時、私はまだ気づいていなかった。
この霧が晴れた後、私たちの「日常」から、大切な何かが決定的に失われてしまうことに 。
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