勿忘草(わすれなぐさ)のレクイエム
南足洵ノ佑
第1章:プロローグ
暗闇の中にいた。
そこには上も下もなく、右も左もない。
ただ、底の見えない、冷たく粘りつくような濃密な闇だけが支配する世界。
自分の体があるのかさえ定かではなく、ただ意識だけが、凍てつく宇宙を漂っているような心細さに包まれていた。
どこからか、微かな音が聞こえた。
最初は、風の音かと思った。
あるいは、自分の鼓動が耳の奥で鳴っているだけなのかもしれない。
けれど、その音は次第に形を成し、湿り気を帯びた「声」となって私の鼓動を震わせた。
「――助けて」
耳元で、誰かが切実に囁いた。
震える吐息が肌に触れたような錯覚を覚え、総毛立つ。
それは、痛いほどの悲鳴を押し殺したような、透明で、それでいてひどく掠れた少女の声だった。
ハッと顔を上げると、闇の向こうに、淡く光る後ろ姿が見えた。
見覚えのある、紺色の制服の肩。
丁寧に切り揃えられた黒髪。
それは、紛れもなく彼女――美咲だった。
「美咲……?」
私は、出ない声を必死に絞り出した。
彼女は、まるで霧の中に溶けていくかのように、ゆっくりと遠ざかっていく。
待って、行かないで。
そう叫びながら、私は形のない闇を掻き分け、彼女の背中に向かって必死に手を伸ばした。
あと少し。
あと数センチで、その指先に触れることができる。
そう確信した瞬間、彼女の姿が揺らぎ、無数の青い花弁となって散った。
指先をすり抜けたのは、冷たい夜の空気だけだった。
「…………っ!」
弾かれたように、目を開けた。
目に飛び込んできたのは、見慣れた寮の天井だった。
街灯の光がカーテンの隙間から細く差し込み、殺風景な部屋を青白く照らし出している。
激しく脈打つ心臓の音が、静まり返った部屋の中で、まるで自分を急かすかのように鳴り響いていた。
「……夢、か」
ひどく喉が渇いていた。
額から流れる汗が頬を伝い、冷たく首元に溜まる。
全身を襲う疲労感は、まるで一晩中、重い荷物を背負って走り続けた後のようだった。
起き上がろうとして、右手のひらに硬い感触があることに気づいた。
何かを、無意識のうちに強く握りしめていたらしい。
ゆっくりと、震える指先を解いていく。
そこに、一枚の栞(しおり)があった。
透明なラミネート加工が施された、手作り感のある栞。
その中には、小さな青い花が押し花にされていた。
可憐で、どこか寂しげな色を湛えた、勿忘草。
「どうして、これを……」
思い出せない。
どうして自分がこれを握っていたのか。
そもそも、この栞をどこで手に入れたのかさえ、霧がかかったように記憶の底に沈んでいる。
けれど、指先に残る栞の冷たい感触と、夢の中で聞いたあの切実な囁きだけが、妙に鮮明な現実味を帯びていた。
――助けて。
美咲の声が、まだ耳の奥で反響している。
彼女は、今、どこにいるのだろうか。
なぜ、私に助けを求めたのだろうか。
窓の外では、深い霧が音もなく立ち込め、学院の校舎を飲み込もうとしていた。
その白一色の沈黙が、まるで何か巨大な怪物の影のように見えて、私はたまらず勿忘草の栞を胸元に抱きしめた。
これが、長い長い冬の夜の、始まりだったのだと。
その時の私は、まだ知る由もなかった。
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