第2話
「次の春に結婚したいと思ってるの」
とうとう言われた。まずそう思った。頭が真っ白になって、あたしは思わず下を向いた。
「まじ?おめでとう!つーかもっと早く結婚すると思ってたわ」
「それはいいだろ、タイミングとかあるんだから。……あゆみ、隼翔くん、おめでとう」
紡とお兄ちゃんの明るい声が聞こえる。心からの祝福の声だ。あたしは冷や汗をかくばかりで、喉に声の塊が引っ掛かって出てこない。
ちらりとお誕生日席に座っているお母さんを見た。もうずいぶんと年を取ったお母さんは、皺がある頬を緩めて2人を見つめるばかり。お母さんは知っていたのだろう。そりゃあそうだ。当たり前だ。
高校から付き合っている人たちって何歳くらいに結婚するんだろーね。つい最近聞いた友達の声が頭の中に響く。たぶん、26歳って遅い方なんだろうな。だって高校からだ。今のあたしと同じ高3のときには、お姉ちゃんとこの人はとっくのとうに付き合っていた。
「……結」
遠慮がちなお姉ちゃんの声。いつもだったらお姉ちゃんに名前を呼ばれたらすぐに飛びつくけれど、あたしはまだ顔を上げられない。
心臓がばくばくとうるさい。声を出したら涙が出そうだった。
「結」
低い声が響いた。お兄ちゃんより、紡より低い、落ち着いた声だ。幼いころは何度も何度も呼ばれていて、そのときはあたしも嬉しくてすぐ返事して。でもいつからか、その声で呼ばれるたびに苦しい気持ちになっていた。だけどお姉ちゃんは、その声で呼ばれる時がいちばん嬉しそうな顔をする。
「結の気持ちを聞かせてほしい」
ぼろり、我慢できなくて涙が零れ落ちた。あたしは自分の涙にこんなに驚いているのに、お兄ちゃんも、紡も、お母さんも……お姉ちゃんもその人も、誰も何も言わなかった。
一番言わないといけない「おめでとう」も、素直な気持ちの「やだよ」も、何も、何も言えなくて、あたしはリビングを飛び出した。急いで部屋に入って鍵をかける。がちゃん。これで誰も入ってこられない。今は誰にもあたしの心に触れてほしくなかった。
お姉ちゃんと2人で使っている部屋。真ん中をパーテーションで区切っているけれど、たまに開けて布団を並べるときがある。開けっ放しのクローゼットの中にはお姉ちゃんから貰ったお下がりの洋服がたくさん入っていた。お姉ちゃんの服はあたしより少ない。
この部屋にはお姉ちゃんのものがたくさんある。当たり前だ。だってここはお姉ちゃんが帰ってくる場所なんだから。
でも、結婚して、本当にあの人と暮らすことになったら、お姉ちゃんはもう帰ってこないんだ。
扉に背を預け、ずるずるとしゃがみ込む。
溢れる涙を膝に押し付けていると、トントンと階段を上がる音がした。これはお姉ちゃんの足音だ。すぐにわかった。それでも顔を上げられなかった。
こんこん。優しいノックの音がする。
「結?」
お姉ちゃん、あのね。
「結、あのね」
あたしね、わかってるの。おめでとうって言わなきゃいけないこと。
お姉ちゃんの傍にいられるのはあの人しかいないってこと。
「隼翔くんがね、結の好きなチーズケーキ買ってきてくれてるから。お腹空いたら食べてね。隼翔くん、もう帰るから」
たぶん、あたしがこんな態度取らなかったら、いつも通りあの人とお姉ちゃんが並んでごはん作って、お皿洗いも2人でやって。あの人は足を悪くしたお母さんを気遣って。あの人と話したがる紡の隣に座って、お兄ちゃんとは仕事の話なんかして。それで……それで。
「結。私はね、結のこと、ほんとにほんとに大好きだよ」
知ってるよ。でもたぶん、「あたしも大好きだよ」って返す資格、今のあたしにはない。
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