明日も幸福【完結】

北葉

第1話



姉はヤングケアラーだった。






「結、今日は早く帰って来いよ」



玄関を出る直前、兄にそう声をかけられた。振り返りもせずそのまま扉を開けようとすれば、



「今日は隼翔くんが来る日だから」



この世で一番大嫌いな人の名前が発せられ、足が止まる。





「前から言ってただろ」


「知らない。あたしには関係ない」


「お前な、」



がちゃり。ドアを開けると、ひんやりとした空気が肌を纏う。空は雲に覆われていて、つい最近まで鮮やかに彩られていた木々はすっかり色を失っていた。

勢いよくドアを閉める。かかとが潰れそうなローファーを履きなおして、学校に向かう道を走り抜ける。








「結の制服ってさー、お姉ちゃんのおさがりなんだっけ?」



友達にちょいちょい、とブレザーを引っ張られる。姉から譲り受けて3年経つ、赤いネクタイが目印のブレザー。ブラウスはさすがに買い替えてもらったけれど、ブレザーとネクタイ、無地のスカートは姉が着ていたものをそのままもらった。




「そーだよ。身長あんま変わんなかったからまじでそのままもらった」


「その割にはキレーだよね?結ってスカート巻いたりしないからなー」


「だってホック外れちゃうでしょ」


「そーだけど。真面目だなー、結は」





友達がケラケラ笑う。彼女は毎日スカートを限界まで巻いているから、何度もホックが外れている。そのたびに母親につけてもらっていると以前言っていた。




「結のおねーちゃんてさ、彼氏と高校の時からでしょ?」



ぽき。シャーペンの芯が折れた。友達はそんなことには気づかずに、にこにこ笑いながら話を続ける。



「すごいよね、高校からって。あたしなんてこの3年間で3回彼氏代わってんだけど。やばくない?一途なんだねー」


「……まあ」


「ねー、おねーちゃんの彼氏イケメン?」


「別に。全然かっこよくないよ」


「ホント?写真とかないの?」


「ないよ。興味ないもん」





本当だ。一枚もない。大嫌いなやつの写真なんて欠片も持っていたくない。



ぐしゃ。ちょっと手に力が入って、ノートの隅が形を変えてしまった。まだ計算途中だったのに。




「おねーちゃん何歳?」


「……26」


「え、結構年離れてんね!うちら18だからー。8歳差?もしかしてさー」





ずきずき。頭が痛い。もうずっと前からこの痛みはなくならない。




「そろそろ結婚する感じ?」









小さいときから、あたしの世界はお姉ちゃんでいっぱいだった。



ご飯を作ってくれたのも、お風呂に一緒に入ってくれたのも、一緒に寝てくれたのも、全部全部お姉ちゃんだった。シングルマザーで忙しいお母さんに代わって、お姉ちゃんがなんでも面倒を見てくれた。授業参観や運動会にだって来てくれた。高校受験の相談に乗ってくれたのだってお姉ちゃんだった。好きな人ができたときには真っ先にお姉ちゃんに相談した。



明るくて、可愛くて、すっごく優しい、あたしの自慢のお姉ちゃん。あたしは本当に、ずっとずっとお姉ちゃんが大好きだった。




だけど同時に知っていた。お姉ちゃんには、世界で一番大好きな人がいるってこと。












「あ?んだよ結、帰ってきてんのかよ」



開口一番失礼なやつだ。こんなやつとほぼ同時に生まれたなんて信じたくない。

双子の兄の紡は、あたしを見て呆れたような顔をした。それに腹が立って。ソファの上にクッションを投げつける。いとも簡単にキャッチされてますます苛立ちが募った。



「お前さー、隼翔くん来る度にその態度やめろよ」


「うるさい」


「ガキんときは懐いてたじゃん」


「昔とは違うの。単細胞なあんたと違うから」


「はあ?お前が意地っ張りなだけじゃん」




キッと睨みつけるけれど、紡には全然ダメージがないようだった。



あんたはいいよね、お姉ちゃんの大好きな人のこと、あんたも大好きだから。




「今日も会わねえつもりかよ」


「あたしの勝手でしょ」


「それはそーだけど。いーのかよ?姉ちゃんたちもうすぐ、」




ばん、とテーブルを両手で叩く。大きな音に驚いたのは叩いた本人のあたしで、紡はちっとも動揺してなかった。



あの日もそうだった。もう何度も何度もうちに来ているはずなのに、その人が初めてスーツで来た時。



あたしは動揺してばかりでろくに前を向けなかったけれど、紡は真っすぐ2人を見て、笑ってた。「おめでとう」って。




「……姉ちゃんは」


紡の声が静かに響く。


「姉ちゃんは、お前に一番おめでとうって言ってほしいと思うけど」



知ってるよ、そんなこと。



ソファに置きっぱなしだった鞄をひっつかんで、再び外に飛び出した。

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