第5話 最後の一文

 会場の照明が落ち、一筋のスポットライトが羽鳥を捉えた。

 三千人の視線。数十台のカメラ。そして、刻一刻と動く市場の期待。

 巨大スクリーンの株価チャートは、期待感だけで僅かに上向いている。その「線」の一瞬先の危うさを、袖にいる私と三枝室長だけが知っていた。


 羽鳥がマイクの前に立つ。

 彼の手には、私が整え、彼自身が血を通わせた原稿がある。


「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」

 声は、震えていなかった。


 冒頭の謝意は短く。数字は誇るためではなく、果たした責任として一言。

 うまく流れている。

 ここまでは事故はない。会場には予定調和の空気が漂い、記者の何人かが退屈そうにペンを置くのが見えた。


 そして、羽鳥は原稿の三段目に指を置いた。一瞬の沈黙。


「……今日、私たちの会社は上場という祝いの節目を迎えました。ですが、この場を借りて、私たちが決して忘れてはならない『あの日』の話をさせてください」


 アクビをしかけた記者が、口を開けたまま静止する。会場の空気が、物理的な重さを伴って凝縮した。


 羽鳥は、顔を上げた。


「私たちはかつて、大規模なシステム障害を起こしました。顧客の業務を止め、信頼を壊し、画面の向こう側にいた多くの人々を絶望させました。あの日、私たちのチャットには『顧客の担当者が泣いている』という報告が流れました。その涙は、私たちの技術の未熟さが招いたものです」


 「失敗」という言葉は使わない。だが、あの日起きた「事実」から逃げない。

 私はインカムを耳に押し当て、会場の反応をモニターする。ざわめきはない。ただ、深海のような静寂。


「私たちはその事実を美談にするつもりはありません。ただ、その日から、私たちのアクションは変わりました。逃げるのではなく向き合う。隠すのではなく作り直す。今日という日は、その泥臭い積み重ねの先にあります」


 烏丸が狙った覇者の高笑いはここにはない。

 しかし、会場にいる取引先のエンジニアや、最前列に陣取る古参の株主が、深く頷くのが見えた。

 それは、成功への羨望ではなく、プロとしての「心の共鳴」だ。


 いよいよ、最後の一文。

 羽鳥は、用意された原稿から完全に目を離した。

 私が白紙で残し、彼が自らのペンで埋めた、あのスペース。


「上場という鐘の音は、私たちの勝利を祝う音ではありません。あの日、画面の向こうで泣いていた誰かの声を、二度と聞き逃さないという『誓いの音』です。――私たちは、明日の『止まらない日常』で、皆さんからのご信頼に応えていきます」


 一秒。

 二秒。

 真空のような沈黙の後、拍手が起きた。

 それは、金であがなわれた熱狂ではない。

 会場の端から、一人、また一人と、重く、確かな納得を噛みしめるように打ち鳴らされる、心からの拍手。


 拍手の波が広がる、その端で。記者席の最前列、経済紙の記者が、ノートPCのメモを消して打ち直しているのが、私の立ち位置から見えた。

 さっきまでの下書き――「強気の成長宣言」は消え、代わりに短い文が踊る。

『上場の鐘は勝利ではなく誓い――顧客の涙を語ったCEO』


 私は、胸の奥で小さくガッツポーズをした。この感動は会場を超え、確かに社会へ届く。

 三枝室長が、スクリーンを見つめたまま、小さく頷くのが見えた。


 式が終わり、祭りの後の静けさが会場を包む。

 撤収作業の喧騒の中、出口の向こうで誰かと電話している烏丸の姿が見えた。彼は私に気づくと、苦々しい笑みを浮かべ、昂然と頭を上げて、そのまま雑踏へと消えていった。

 「勝つ言葉」を売る男は、また別の戦場へ赴くのだろう。


 私はインカムを、ゆっくりと外した。

 途端に、現場の殺気だった音が遠のき、ただのホテルの静寂が戻ってくる。祝賀イベントが、無事終わったことを教えてくれた。


 左耳のイヤーカフも外す。

 金のチャームが今日の出来事を吸い尽くしたように、ずっしりと重い。


「今日の拍手、悪くなかったな」

 片付けを終えた三枝が、私の隣に立った。


「はい。……心に響きました」

 私は、背の高い三枝を見上げる。


 三枝はそれ以上何も言わず、タブレットに表示された翌週の不祥事対応の予定表に目を通し始めた。感傷に浸る時間は、三秒もくれなかった。


 私は外したイヤーカフをポケットにしまい、三枝の背中を追って歩き出した。


 決して、嘘は通さない。

 人を刺す言葉は、私の赤で落とす。

 それが、言葉でしか戦えない私の、ただ一つの戦い方だ。


(完)

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左耳のイヤーカフ ~戦う広報室~ 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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