第3話 行動の証明

 午前四時。

 会場に隣接するホテルのラウンジは、深い藍色の闇に包まれていた。

 三枝室長が、噛みつく主幹事証券会社アンダーライターとの「泥仕合」に決着をつけ、戻ってきたのは一時間前。彼は「あとは、久住に任せる」とだけ言い、今は仮眠を取っている。


 私は、一人で待っていた羽鳥の元へ向かった。

 窓の外、藍色の街を見つめる彼の背中は、注目を集める新進IT企業のトップというより、ただ一つの後悔を抱え続ける一人のエンジニアに見えた。


「羽鳥さん」


 声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。

 その手元には、烏丸が置いていった「金の箔押し原稿」があった。


「久住……。烏丸君は、ある意味で正しいんだろうな」

 羽鳥は自嘲気味に笑った。「投資家は夢を買う。だったら、過去の失敗なんて見せない方がいい。上場は祝いの場、『成功したふり』をするには絶好の晴れ舞台だ」


「『ふり』をすれば、少しずつ本当の自分と乖離してゆきます。羽鳥さんの言葉が、羽鳥さんご自身の心を離れて、浮ついた嘘になってしまう」


 私は用意してきた新しい原稿をテーブルに置いた。

 烏丸の箔押し原稿のような重厚さはない。ただのコピー用紙だ。けれど、そこには三枝室長が守り抜き、私が削り出した、嘘のない行動を積み上げた骨格がある。


 羽鳥はその原稿に目を落とし、三段目で指を止めた。


「……これ、あの日のことか」


「はい」


『信頼を失いかけた瞬間がありました』

 その一文を見て、羽鳥の目が遠くなった。


「あの日……全サーバーが停止した、あの日。僕が最後に見たのは、チャットに流れてくる、現場の悲鳴だった」


 彼はスマホを取り出し、保存されていた一枚のスクリーンショットを私に見せた。

 かつての社内チャットのログ。


『先方の業務、完全に止まりました。担当者が、電話口で泣きじゃくっています』


「その一文を見て、指が動かなくなった」

 羽鳥の声が、かすかに震えている。

「数字が落ちるとか、契約が切れるとかじゃない。僕たちが作った不備のせいで、会ったこともない誰かの日常を壊したんだ。その重さに、心が震えた」


 彼は、薄黒い窓外を見つめた。


「上場の鐘を鳴らすとき、僕はその『泣いていた誰か』のことを思い出すだろう。それを隠して、成功だ、覇者だと叫ぶのは……。それは、死んだ言葉を吐くのに等しい」


「だったら、その『震えた感覚』を、明日の約束に変えてください」


 私は一歩踏み出した。

「烏丸さんは、成功を『言葉』で飾ります。でも羽鳥さんは、あの日から今日までを『行動』で語ってきたはずです。向き合い、謝罪し、コードを一行ずつ書き直した。その動きこそが、我が社の価値です」


 私は原稿の後半にある、一段を指す。

「ご覧ください、失敗は美談にしません。事実として配置します。その上で――投資家が知りたいのは『反省』じゃない。事故の再発確率が下がった根拠です」

 私は原稿の箇条書きを指した。

「たとえば、障害後に監視体制をどう変えたか。デプロイ手順をどうマニュアル化したか。SLAをどう再設計したか。ここは数字で言えます。誠実さを、仕組みと行動に落とし込めるんです」


 羽鳥が、初めて私の目を真っ直ぐに見た。『経営者の目』だ。


「……久住。この原稿の最後、一分間ほど、白紙になっているが」


「そこは、私の仕事ではありません」


 今度は私が、羽鳥の目をまっすぐ見返した。

「広報は、あなたが事故を起こさないように道を整えることはできます。でも、最後は、誰に向かって、何を語るか。それは羽鳥さん、ご自身で決めてください」


 羽鳥は、手元にあった烏丸の美麗な原稿を、ゴミ箱に叩き込んだ。

 そして、私が持ってきた薄いコピー用紙と、一本のペンを握る。


「一文で、いいんだな」


「はい。その一文が、明日のニュースになります。最高の見出しにしてください」


 羽鳥は頷き、白紙のスペースにペンを走らせた。

 迷いのない、力強い筆跡。


 夜が明ける。

 会場のスピーカーから、マイクチェックの音声が聞こえ始めた。


「行こう、久住。私たちの言葉を、届けに」

 私は「はい」と短く答え、羽鳥の一歩後ろを歩き始めた。


 舞台袖では、再び烏丸が「劇薬」を隠し持って待ち構えているかも知れない。

 けれど、私たちの手には、もう借り物の武器は要らなかった。

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