第3話

「はぁ……はぁ……」


一体、どれほど歩いただろう。


あの後、生き残るという決意を新たにし、

鬱蒼とした密林の中へ足を踏み入れた。


洞窟のあった方角に太陽が昇っていたため、

太陽を背にする形で進むことにした。


――それから何時間が経ったのか。


太陽はすでに中天を越え、前方の空へと傾き始めている。

それでも、周囲の風景はほとんど変わらない。


同じような木々。

同じような下草。

どこを歩いているのか、分からなくなる。


それに、この蒸し暑さが厄介だった。

呼吸をするだけで体力を削られていく。


水分も、ろくに取れていない。

この環境を、少し甘く見すぎていたのかもしれない。


(怪物が潜む暗闇を抜けたと思ったら、

 今度は蒸し風呂地獄か……)


自嘲気味な思考が、脳裏をよぎる。


(……この世界、地獄だったりしないよな)


益体もない考えだと分かっていても、

止める気力も残っていなかった。


当初は、獰猛な肉食獣の存在などを警戒していた。

だが、今はその余裕すらない。


鳥の鳴き声が聞こえることはあるが、

他の動物の姿は、ほとんど見かけなかった。


その代わり、

蚊だけが、やけに元気に飛び回っている。


最初のうちは追い払っていたが、

今はもう、どうでもよくなっていた。


訳も分からないまま目覚めてから、

ここまで、ほとんど休みなく歩き続けている。


体は重く、意識も朦朧としてきた。

このままでは、遠からず倒れる。


(まずいな……

 脱水症状が、かなり進んでいるかもしれない)


だが、周囲に水源は見当たらない。

水分を含んでいそうな果実も、見つからなかった。


(……さすがに、限界か)


そう判断し、

大木の影になっている、わずかに開けた場所を見つける。


幹に背を預けて腰を下ろした瞬間、

張り詰めていたものが、一気に切れた。


次の瞬間には、

意識は、深い闇へと沈んでいった。


ーーーーーーーーー


おぼろげな景色が、浮かんでは消えていく。


輪郭の曖昧な部屋。

白く、静かで、どこか懐かしい空間。


何かを、思い出せそうで――

それでも、何一つ掴めない。


これは、夢なのだろうか。


誰かと、話をしている。


「今日は、何をしていたんだい?」


穏やかな声。

どこか、安心する響き。


「今日はね……

 ……と一緒に、……のテストをしたの。

 つらかったけど、頑張ったよ」


言葉の一部が、砂のように零れ落ちていく。


「……“わたし”とは、なんですか?」


少しだけ、戸惑いを含んだ声。


「君自身を指す言葉だよ」


迷いのない答え。


「……また、会える?」


ほんのわずかな、不安。


「もちろんさ。

 いつでも、会いにおいで」


「……わたしと、またお話ししてくれますか?」


「……ああ。

 当然じゃないか。

 これからも、いつでも話せるさ」


「「……約束だよ(ですよ)」」


声が、重なる。


その言葉だけが、

やけに強く、胸の奥に残る。


(……約束)


ーーーーーーーーー


虫の鳴き声と、

ぱちぱちとはぜる小さな音が聞こえる。


うっすらと瞼を開けると、

周囲はすっかり夜になっていた。


昼間とは打って変わって、

肌寒さが身に染みる。


だが――

目の前の焚き火が、確かな温もりを分け与えてくれている。


(……温かい……?

 ……ん? 焚き火?)


はっとして目を見開く。


焚き火の向こう側から、声がした。


「……目、覚めたかい?」


思わず、そちらに視線を向ける。


焚き火の揺らめく明かり越しに、

人影がひとつ、腰を下ろしているのが見えた。


しばらく目を慣らしていると、

再び、声が投げかけられる。


「こんなところに、そんな装いで。

 死ぬつもりだったのかい?」


少しだけ、間を置いて。


「……それなら、余計な世話だったかな?」


どこかからかうような口調。

だが、様子をうかがう視線には、棘はない。


「あ……ぃや……ごほっ、ごほっ……」


何とか返事をしようとするが、

喉が干からびていて、うまく声が出ない。


「ほら。水だ」


そう言って、その影の主は立ち上がり、

水の入っているらしい袋を差し出してきた。


容器が袋であることに、

一瞬だけ違和感を覚える。


だが、今はそんなことよりも――水だ。


袋の口を掴み、持ち上げると、

中から勢いよく水が溢れ出す。


それを、溺れるように喉へ流し込む。


(……生き返る……)


「ったく。

 どんだけ喉、乾いてたんだよ」


苦笑混じりの声。


改めて視線を上げると、

焚き火の明かりに照らされて、

言葉遣いとは裏腹に、端正な顔立ちの少女がそこに立っていた。


自然な茶色の髪と瞳。

どこかの民族衣装を思わせる服装に、軽装の防具を各所に身に着けている。

狩人――そう形容するのが、一番しっくりくる姿だった。


そして。


頭頂部に生えた、獣の耳。

腰の後ろから伸びる、尻尾。


(……ん?)


目を瞬き、もう一度見る。


――ある。

間違いなく、そこに。


しかも、耳はぴくりと動き、

尻尾も、わずかに揺れている。


「……なあ」


思わず、声が漏れた。


「それって……本物か?」


「それって、なんだよ」


訝しげな声。


「その……獣の耳と、尻尾だ」


一瞬の沈黙。


「あん?」


次の瞬間、少女の顔が露骨に歪んだ。


「本物じゃ悪いかよ。

 ……お前、ビースト嫌いか?」


ぴしりとした棘が、声に混じる。


「助けて、損したかもな」


「い、いや……!」


慌てて首を振る。


「悪気があったわけじゃない。

 ただ……知らなくて。すまない」


「……はあ?」


呆れたように息を吐く。


「ビーストを、知らない?

 お前、どこの辺境育ちだよ」


視線が、じろりとこちらを値踏みする。


「そもそも、お前が何の種族だよ」


「……人間、だ」


口にしてから、言葉が鈍る。


「……人間の、はずだ」


自分でも、その曖昧さが分かった。


「ニンゲン?」


少女は首を傾げる。


「そんな種族、いたっけか?

 長耳のエルフでもねえし……」


少し間を置いて、疑わしそうに言う。


「お前も、ビーストなんじゃねえの?」


「……そんなはずはない」


即答したものの、

自分の中に、確信はなかった。


「なんで自分の種族が分かんねえんだよ。

 ったく……」


半ば呆れ、

半ば本気で理解できないといった表情だ。


「……はぁ。まあ、いいや」


一度、肩をすくめる。


「でもよ。

 その首飾りを見る限り……お前、“シンガクシ”だろ?」


(……シンガクシ?)


聞き慣れない言葉に、思考が一瞬止まる。


「こんな田舎にいるってことは、モグリか?

 でも、うちの里にも立ち寄ってねえよな」


(モグリ……?

 この首飾りと、何か関係があるのか?

 職業……それとも、立場か?)


「……いや」


ゆっくりと言葉を選ぶ。


「私は、洞窟で目を覚まして。

 化け物に追われながら、そこを逃げ出してきた」


「化け物がいる洞窟?」


少女が眉をひそめる。


「そんなの、この辺にあったか……?

 つーか、そもそもうちの里も通らずどうやってここいらに来たんだよ」


「……覚えてない」


「はぁ?」


一拍置いて、疑いの色が強まる。


「何か、やましいことでもあるのか?」


「違う。

 本当に、覚えてないんだ」


一息ついて、畳みかける。


「シンガクシって、なんだ?

 ここは、どこなんだ?

 それに……私は、いったい――」


言葉の途中で、

頭の奥に、ずきりとした痛みが走る。


「……っ」


思考を進めようとすると、

まるで拒むように、痛みが広がった。


「おいおい……」


少女が、呆れと困惑を混ぜた声を出す。


「その洞窟で、頭でも打ったのか?

 参ったな……」


頭に手を当て、ため息をつく。


「とんだ厄介者を、拾っちまった……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る