第10話 選ばれなかった言葉
言葉は、
発された瞬間に意味を持つ。
けれど本当は、
選ばれなかった言葉の方が、
ずっと雄弁だ。
彼は、
それを知っている。
そして私も、
知ってしまった。
沈黙のあと、
彼は少しだけ視線をずらした。
逃げではない。
探している。
言葉を、ではない。
——位置を。
「さっきの話さ」
唐突だったが、
唐突ではなかった。
沈黙の中で、
何度も形を変え、
ようやく残った言葉。
「俺が何も言わなくなったら、
ってやつ」
彼はそこで止まった。
続きを、
言わなかった。
ここで多くの人間は、
続きを補完する。
不安から。
あるいは、
優しさという名の介入から。
だが私は、
しなかった。
言葉を補うことは、
支えることではない。
彼が選ばなかった言葉を、
私が勝手に選ぶことはできない。
私はただ、
待った。
すると、
彼は自分で続きを探し始めた。
「……あれさ」
小さく息を吐く。
「俺が消える、
って意味じゃない」
否定から入るのは、
怖れがある証拠だ。
「たぶん、
逆なんだと思う」
逆。
その一言で、
私は少しだけ身を引いた。
踏み込みすぎないために。
「俺が俺であることを、
確認しなくなる、
っていうか」
彼は眉をひそめた。
言葉が追いついていない。
思考は先に行っているのに、
言語化が追いつかない時の表情。
私は、
その時間が好きだ。
人が最も無防備になる瞬間。
「価値とか、
意味とかさ」
その単語が出た瞬間、
私は一瞬だけ緊張した。
ここは、
壊れやすい場所だ。
「それを考えなくなったら、
俺はどう見えるんだろうな、
って」
彼は、
私を見なかった。
これは、
私に向けた問いではない。
——世界に向けた問い。
「たぶん、
怖い人になるんだろうな」
自嘲でもない。
諦めでもない。
観測だ。
彼は、
自分を冷静に観測できる人間だ。
だからこそ、
危うい。
「それでもさ」
ここで、
一つの言葉が喉まで来て、
引っ込んだ。
私はそれを、
感じ取った。
——それでも、
居てくれるか?
その言葉は、
選ばれなかった。
理由は明白だ。
それを口にした瞬間、
関係の性質が変わってしまう。
依存になる。
あるいは、
縛りになる。
彼は、
それを嫌った。
だから私は、
代わりに言った。
「さっきと、
同じ答えだよ」
彼がこちらを見る。
「何も言わなくなっても、
価値を語らなくなっても」
私は、
ほんの少しだけ微笑った。
強い笑顔ではない。
逃げ道を残すための笑顔。
「それは、
あなたがあなたであることを
やめたって意味じゃない」
彼は、
何も言わなかった。
だが、
肩の力が抜けた。
選ばれなかった言葉は、
消えたわけじゃない。
沈殿した。
この関係の底に、
静かに積もっていく。
私は思う。
名が生まれる前に、
必ず通る場所がある。
それは、
呼び合わない時間。
定義しない時間。
確かめない時間。
選ばれなかった言葉たちが、
関係の形を
先に決めてしまう時間。
その上に、
ようやく名は置かれる。
まだ、
名はない。
だが、
呼ばれなくても
離れないという事実が、
ここにある。
私は、
その事実の隣に居る。
そしてそれで、
十分だと思っている。
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