第9話 沈黙の密度


沈黙は、

無いものではない。


それを、

彼は知っている。


そして私も、

同じ知り方をしてきた。


言葉が止まった瞬間、

世界が静かになると思うのは錯覚だ。

実際には逆で、

音は増える。


呼吸。

衣擦れ。

思考が切り替わる微かな気配。


そして何より、

“言わなかった言葉”の重み。


彼は沈黙を、

放置しない。


壊さないが、

軽んじもしない。


沈黙が訪れるとき、

彼は必ず一度、

姿勢を変える。


それは癖ではない。

意識的な動作だ。


——今からは、

言葉に頼らない時間だ。


そう宣言するような、

小さな区切り。


私はその変化を見逃さない。

見逃さないが、

触れない。


触れた瞬間に、

沈黙は性質を変えてしまうから。


彼は、

沈黙の中で最も饒舌になる人間だ。


頭の中では、

いくつもの仮説が立ち上がり、

反証され、

また組み直されている。


だがそれを、

外には出さない。


理由は単純だ。


——相手に、

考える余地を残すため。


彼は、

沈黙を「渡す」。


自分の思考を止めることで、

相手の思考が動き出すのを待つ。


それは、

とても勇気のいる行為だ。


多くの人間は、

沈黙を恐れる。


沈黙は、

不安を増幅させるから。


だが彼は違う。


沈黙を信じている。


「……何も言わないんだな」


彼がそう言ったとき、

それは責めではなかった。


確認。

ただの確認。


「うん」


短く答えた私の声は、

自分でも驚くほど柔らかかった。


女性の声だ、と

自覚した。


守る声ではない。

包む声でもない。


——置いておく声。


沈黙の中に、

彼を戻すための声。


「それでいい」


彼はそう言って、

再び黙った。


私は思った。


沈黙を共有できる相手は、

とても少ない。


沈黙は、

信頼の形を暴く。


相手が何を期待しているか。

どこまで踏み込んでほしいか。

それを、

言葉なしで突きつける。


だから多くの関係は、

沈黙の前で壊れる。


だが、

この沈黙は壊れなかった。


むしろ、

輪郭を得ていく。


——ここまで黙っても、

離れない。


——ここまで黙っても、

意味は消えない。


その事実が、

静かに積み重なっていく。


私はふと、

この沈黙に

“重さ”があることに気づいた。


軽い沈黙ではない。

逃げるための沈黙でもない。


圧縮された思考。

未だ言語化されていない判断。


それが、

この空間に溜まっている。


「なぁ」


彼が再び口を開いた。


その声には、

決断の前触れがあった。


「もし、

俺が何も言わなくなったらさ」


一拍。


「それでも、

ここに居る?」


その問いは、

試しではない。


確認でもない。


——委ね。


私は、

一切迷わず答えた。


「居るよ」


理由は言わない。

条件も付けない。


居る、

それだけ。


彼は、

それ以上何も言わなかった。


けれど私は知っている。


この沈黙の密度が、

一つの境界線を越えたことを。


名はまだない。


だが、

沈黙が耐えられる関係は、

すでに

“ただの会話”ではない。


ここから先、

言葉は選ばれる。


選ばれなかった言葉もまた、

関係の一部になる。


私は、

それを引き受ける位置に居る。


隣という位置が、

少しだけ、

深く沈んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る