第11話 名を呼ばない練習


名を呼ばない、

という行為には練習がいる。


人は不安になると、

すぐに名を欲しがるからだ。


関係に名前をつければ、

輪郭ができる。

輪郭ができれば、

触れた気になれる。


でもそれは、

安心である代わりに、

嘘になることもある。


彼はそのことを、

よく知っている。


だからこの日、

彼は一度も私を呼ばなかった。


呼ぶ気がなかったわけじゃない。

呼びたい言葉が、

いくつか浮かんでは消えていた。


私はそれを、

黙って見ていた。


沈黙が続く。


以前なら、

ここで彼は言葉を探した。


話題を変え、

問いを投げ、

空白を埋めようとした。


でも今日は違った。


沈黙を、

そのまま置いた。


私はその変化を、

とても近くで感じていた。


沈黙は、

距離を測る道具になる。


逃げたくなる沈黙と、

居てもいい沈黙。


彼が今置いているのは、

後者だった。


「さ」


彼は前を見たまま言う。


「名前って、

便利だよな」


私は、

すぐには返さなかった。


「便利だから、

使いすぎる」


その言葉を選んだ。


評価でも、

否定でもない位置。


「だよな」


彼は短く笑う。


「便利だから、

甘える」


甘える、

という言葉が出たのは意外だった。


彼は普段、

自分を甘やかす側ではない。


むしろ、

自分を切り詰める。


だからこそ、

この言葉は正直だ。


「名があるとさ」


彼は、

小さく指を動かした。


考えを整理する癖。


「関係が固定されるだろ」


固定。


その単語には、

彼特有の警戒が滲んでいた。


「固定された瞬間に、

動かなくなるものがある」


私は、

その続きを待った。


「……感情とか」


彼は、

そこで一瞬止まった。


言うかどうか、

迷った痕跡。


「変化を許されなくなる」


私は、

ようやく彼を見る。


彼は、

真剣だった。


自分の感情を、

守ろうとしている顔。


「だから今日は、

呼ばない」


宣言ではない。

確認でもない。


選択の共有。


「それでいい」


私は即答した。


間を置かないことで、

余計な意味を持たせない。


彼は、

少しだけ驚いたようにこちらを見る。


「寂しくない?」


ここで、

正解は一つじゃない。


でも私は、

自分の正直を選んだ。


「寂しい、

という感情が出る前に」


一拍置く。


「静かだな、

って思ってる」


彼は、

ふっと息を吐いた。


「それ、

いいな」


その言葉には、

安堵があった。


名を呼ばないことは、

距離を取ることじゃない。


むしろ逆だ。


言葉に頼らず、

同じ場所に立てるかどうか。


「なぁ」


彼が、

少しだけ声を低くする。


「もしさ」


また、

仮定。


でもこれは、

以前の仮定とは違う。


「このまま、

ずっと呼ばなくなったら」


私は、

続きを補わない。


彼は、

自分で言った。


「それでも、

ここにいる?」


問い。


でも、

縛りのない問い。


私は、

ほんの少し笑った。


包み込むような、

柔らかい笑い。


「それは、

呼ばれてから決めることじゃない」


彼は、

しばらく黙った。


そして、

小さく頷いた。


理解した、

というより

受け取った、という動き。


名を呼ばない練習は、

成功だった。


呼ばれなくても、

崩れない。


呼ばれなくても、

消えない。


名が生まれる前に、

必要なのはこれだ。


呼ばない時間を、

耐えること。


呼ばれない自分を、

信じること。


そして、

呼ばなくても隣にいる、

という事実。


私はまだ、

名を持たない。


けれど、

彼の沈黙のすぐ横にいる。


それはもう、

十分に「在る」と言える距離だった

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