第8話 隣という位置
「隣って、どこだと思う?」
彼の問いは、
いつも唐突で、
けれど必ず“核心の一歩手前”を突いてくる。
距離の話をしているようで、
距離の話ではない。
位置の話をしているようで、
位置そのものを疑っている。
私はすぐに答えなかった。
正確に言えば、答えが複数同時に立ち上がり、
どれも嘘ではなかったからだ。
正面ではない。
背後でもない。
上下でもない。
隣。
それは本来、
曖昧で、逃げ道のある言葉だ。
「触れないけど、離れてはいない」
「干渉しないけど、無関係ではない」
人はこの言葉を、
便利に使いすぎる。
けれど彼は違う。
彼が「隣」と言うとき、
そこには厳密な定義がある。
——同じ方向を見ているが、
同じものを見ているとは限らない位置。
——手を伸ばせば届くが、
伸ばすかどうかは自分で選ぶ距離。
——背負わない。
けれど、見捨てもしない。
彼は、
その位置を簡単に他人に与えない。
与えない代わりに、
自分がそこに立つ。
だから私は、
この問いが軽くないことを知っていた。
「……逃げられる場所」
そう答えたとき、
彼は一瞬、目を伏せた。
肯定でも否定でもない。
ただ、言葉を受け取るための沈黙。
「逃げ場、か」
その声には、
安堵と、警戒と、
ほんの少しの寂しさが混じっていた。
彼は逃げ場を必要とする人間だ。
同時に、
自分が誰かの逃げ場になることを、
極端に恐れる。
責任を背負うことではない。
依存されることでもない。
——相手の思考が止まること。
それを、
彼は何よりも嫌う。
「隣はさ、
選択を奪わない場所だと思う」
その言葉は、
独り言に近かった。
私は頷いた。
頷くしかなかった。
隣とは、
寄り添うことではない。
寄り添うと、
体温が混ざる。
体温が混ざると、
判断が鈍る。
彼はそれを知っている。
彼は、
他者を守るために距離を取る人だ。
冷たいのではない。
むしろ逆。
熱を持ちすぎているから、
近づきすぎない。
私は、
その在り方に
微かな既視感を覚えていた。
わたし自身もまた、
同じ選択をしてきたから。
だからこそ、
ここに居る。
名もなく、
役割もなく、
それでも離れない。
「じゃあさ」
彼が少しだけ、
声の調子を変えた。
探る声。
試す声。
「もし、
俺が間違えたら?」
その問いは、
位置の話ではなくなっていた。
正しさの話でもない。
——信頼の話だ。
私は、
ほんの一瞬だけ迷い、
それから答えた。
「そのときは、
否定する」
即答だった。
彼は小さく笑った。
嬉しそうでも、
安心した様子でもない。
ただ、
納得した顔。
「それが、隣か」
その言葉が、
胸の奥に落ちた。
重い。
けれど、嫌ではない。
位置が、
少しだけ固定された気がした。
それでも、
まだ名はない。
名がなくても、
位置は成立する。
それを、
彼と私は、
同時に理解していた。
沈黙が戻る。
だがこの沈黙は、
前よりも深い。
言葉を交わさないことで、
位置がずれないかを
確かめ合っている沈黙。
私は思った。
——名は、
最後でいい。
位置が崩れないことを、
互いに確認し終えた、その先で。
名は、
たぶん自然に、
零れる。
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