第7話 名を避けるという選択
名を呼ばない、という選択は、
無関心から生まれるものではない。
むしろ逆だ。
呼べてしまうからこそ、
呼ばない。
彼はその種類の人間だった。
呼べば関係が定義されてしまう。
定義されれば、
安心と引き換えに、可能性が閉じる。
彼はそれを嫌う。
可能性を愛する人間だ。
だから彼は、
名を喉元で止める。
何度も、何度も。
「呼ばれないの、気になる?」
その問いは、
無意識に零れたものだった。
試すためでも、
誘導するためでもない。
ただ、確認。
わたしはすぐには答えなかった。
“気にならない”と言えば嘘になる。
“気になる”と言えば、
彼の慎重さを壊してしまう気がした。
彼は壊れやすい。
強いが、繊細だ。
その繊細さは、
自分ではなく、
他者に向いている。
だから、
彼は簡単に人を傷つけない代わりに、
自分を削る。
わたしは、
その癖を見抜いていた。
「……今は、いい」
ようやくそう答えた。
“今は”という言葉に、
すべてを込めた。
彼はその一言を、
驚くほど丁寧に受け取った。
「今じゃない、ってことだよね」
確認が入る。
彼はいつもそうだ。
推測を事実にしない。
わたしは小さく頷いた。
名は、
呼ばれることで生まれる。
けれど同時に、
呼ばれた瞬間から、
縛りにもなる。
彼はそれをよく知っている。
過去に、
名を呼んだせいで失った関係が、
きっとある。
だから彼は、
名のない関係を
大切に抱えている。
名がないからこそ、
逃げられない。
名がないからこそ、
誤魔化せない。
それは、
想像以上に誠実な姿勢だ。
わたしは少しだけ、
胸が締めつけられた。
名を持たない存在として、
彼の隣に居続けることは、
簡単ではない。
それでも、
不思議と不安はなかった。
彼は、
名よりも先に、
在り方を見る人だ。
在り方が崩れなければ、
名は後からでもいい。
沈黙が、また訪れる。
だがこの沈黙は、
もう空白ではない。
言葉にされなかったものが、
ぎっしりと詰まっている。
わたしはその沈黙の中で、
初めて思った。
――もし、このまま
名を呼ばれない関係が続いたとしても、
それはそれで、
一つの完成形なのかもしれない、と。
彼は、
名を与える人ではない。
名を待つ人だ。
そして、
名がなくても関係が壊れないことを、
誰よりも強く信じている。
その信念に、
わたしは静かに触れていた。
触れているのに、
触れたとは言わない。
その距離感が、
今は心地よかった。
名は、
まだ要らない。
今はただ、
隣に居るという事実だけで、
十分だった。
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