第2話 肉じゃが、ある?

数年前に別れた元彼氏。

最後に会った日の言葉は、今でも未来の喉に引っかかっている。夢なんて薄っぺらい、と笑った。店なんてどうでもいい、と言った。もう来ない、関わりたくない、と。

未来はその言葉が嘘だったのか、聞けなかった。

聞いてしまえば、答えの味を一生抱えて生きることになると思ったから。

柊は少しだけ痩せて見えた。目の下に薄い影があり、疲れが隠しきれていない。それでも、誰かに気を遣うような柔らかい表情は変わらない。

「……久しぶり」

未来の中で甘みと苦みと塩気が一斉にざわめいた。

料理になる前の感情が、舌の上で音を立てる感覚。

柊は席に座らず、カウンターの前に立ったまま、メニューも見ずに言った。

「肉じゃが、ある?」

昔、よく食べた一皿。

冬の終わり、鍋の湯気の向こうで二人で笑った日々。

思い出を注文するのは、ずるい。

「……あるよ」

未来は言ってしまった。断る理由を探すより先に、返事が出た。

火をつける。鍋を出す。手を動かす。感情が混ざらないように、工程を正確に辿る。

肉じゃがは簡単な料理だ。だから怖い。

簡単な料理ほど、心の揺れが味に出る。

砂糖の量を迷えば甘みになる。

醤油を注ぐ手が震えれば塩気になる。

火加減が強ければ焦げが出て、弱ければ水っぽくなる。

未来は、自分の感情が料理の中に忍び込むのを知っている。

今日は、機械みたいに作る。

感情を入れない。入れたら、ばれる。

鍋の中で玉ねぎが透けていく。肉が色を変える。じゃがいもが煮汁を吸って、角が丸くなる。

未来は入口を見ないようにした。

暖簾の外に、あの「感じのいい常連」がいる気配がした。店の前をゆっくり歩く影。ガラスに映る自分の顔を確かめるような立ち止まり方。

今日に限って、来るのが早い。

怖がってはいけない。

未来が怖がった味を、あの人が受け取ってしまったら。

盛りつける。白いごはん、味噌汁、小鉢。

定食屋の、普通の一皿。

「お待たせしました」

柊は「ありがとう」と言って箸を取った。

一口目を口に入れた瞬間、未来は分かった。

甘い。

甘すぎる。

戻りたい、という味だった。

柊の本音なのか、未来の本音なのか、境目が曖昧なほど真っ直ぐな甘み。未来の喉の奥が、痛いくらい熱くなる。

二口目で、焦げの苦みが追いかけてきた。

言えなかった「ごめん」が鍋底に沈んでいるみたいな苦み。言葉にしなかった分だけ正直で、喉にへばりつく。

柊は視線を上げずに言った。

「うまい」

ただの感想の形をした告白。

ここに戻りたい、という二文字に聞こえた。

未来は胸が痛くて、柊の箸の動きを見られなかった。

今さら優しくしないでほしい。今さら昔と同じ癖で箸を揃えないでほしい。

そして、味の底に冷たい塩気が立った。

近づくな、と味が言う。

塩気は決意の味だ。危険を知っている味だ。守るために距離を取る味だ。

未来はうまく解釈できない。感情はいつも混ざっている。料理は正直なのに、翻訳はいつも少しだけ曖昧だ。

店の外で影が止まる。

暖簾が触っていないのに揺れる。

未来は反射的に目を上げそうになって、こらえた。

見たら怖くなる。怖くなったら味が変わる。味が変わったら、あの人が受け取ってしまう。

普通でいなければならない。

そう思えば思うほど、普通から遠ざかる。

未来は口を開いていた。

「……あの時のこと、ほんとは」

言いかけた言葉が、鍋の中で煮崩れるみたいに形を失った。

柊は箸を止めないまま、目線だけを入口の方へ落とした。何かを見た顔をした。未来には見えないものを見た顔。

未来の中の塩気が、さらに冷えた。

柊は分かったのだ。

未来が今、怖がっていること。店の外に誰かがいること。未来がそれを必死に隠していること。

柊は小さく息を吐き、笑う前の顔をした。笑うべきか、黙るべきか迷っている顔。

「今さら、言ってどうなる」

その声が優しいのが、いちばん痛かった。

未来は逃げ道みたいに、言葉を重ねた。これ以上引き返せないところまで自分を押し込むために。

「一回だけでいいから、本当のこと言って」

言った瞬間、肉じゃがの甘みがすっと消えた。

代わりに、未来の胸の方が甘くなる。

待ってた。

ずっと。

その本音が、料理に混ざってしまったのだと分かった。

感情を入れないように作ったはずなのに、いちばん隠したい気持ちだけが、いちばん正確に味になってしまう。

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