第3話 鍵、替えて
柊は箸を置いた。
目線は入口の方に落ちたまま。
外のガラスが白く曇る。
暖簾が、もう一度だけ揺れる。
柊は、言いかけた。
口が動いたのに、音にならない。
言えば戻れる。言えば、未来を危険に近づける。どちらの恐れも柊の喉を締め付けているのが、未来には分かった。
柊は言葉の代わりに、行動を選んだ。
「会計、お願い」
未来は頷いてレジに立った。
柊は必要以上に手早く支払いを済ませた。まるで、この店に「普通」の出来事をひとつ増やしたいみたいに。
レシートが印字される。
柊はそれを受け取り、折り、裏に何かを書いた。未来に見えないように指で押さえたまま差し出す。
「……ごちそうさま」
その言い方だけが、昔のままだった。
それが嬉しくて苦しくて、未来は笑うことも泣くこともできなかった。
扉の鈴が鳴る。
空気が、少しだけ軽くなる。
未来はレシートを開いた。
短い文字が、そこにあった。
「鍵、替えて」
味噌汁をひと口飲むと、塩が立った。冷めた塩気。
守られた味だ。未来はその塩気のせいで泣きたくなり、でも泣いたらまた味に出ると思って、息を止めた。
入口の外で、あの常連がゆっくりとこちらを見ている。
ガラス越しに、にこやかに会釈をする。
無害な顔で、未来の店を「応援」している顔で。
未来は頷き返すことも、目を逸らすこともできず、ただ鍋の蓋を閉めた。
湯気が隠してくれるのは匂いだけで、気持ちは隠してくれない。
その日の閉店は、いつもより早かった。
暖簾を畳み、椅子を上げ、最後にもう一度だけ鍵を確かめる。指先に残る金属の冷たさが、昼間の塩気と同じ場所に刺さった。
未来はスマホを取り出し、鍵屋の番号を探した。
文字を打つ手が震えそうになって、深呼吸をひとつした。
「鍵を、替えたいんです。今日、できるところで」
電話の向こうの声は事務的で、だから救われた。段取りと料金と時間だけが並ぶ。感情が入る隙がない。未来はそれがありがたかった。
作業の人が来て、古い部品が外され、新しい鍵が取り付けられる。
小さな音がいくつか鳴って、未来の生活の境目が、目に見える形で切り替わっていく。
「これで大丈夫です」
受け取った新しい鍵は、妙に軽かった。軽いのに、未来の胸は少しだけ重くなった。
柊がどこへ行ったのかは分からない。
本当のことも、聞けないままだ。
それでも未来は鍵を握りしめた。
答えの代わりに残された一行が、柊の「戻りたい」よりずっと強い意思で未来を守っているのが分かったから。
玄関の鍵を回す。
新しい音がした。
未来は、初めて自分のために扉を閉めた気がした。
湯気が消えたあとも、甘さだけが舌の奥に残っていた。
戻れないのに、戻りたい味だけが、ちゃんと出来てしまった。
味が先に告白してしまう まるん。 @mile32o
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