第五話 同じ穴の狢
ことの顛末を話そうか。
俺が気を失ってからすぐ後に、キングスクエア内に警察が突入してきたらしい。
管理室にいたと思われる黒幕は、能力を解除し、人を操るのを止めたのは、俺の予想通り警察から逃げたからだろう。俺が意識を取り戻したのは、救急車で病院に運ばれた後だった。伏見がずっと付き添ってくれたみたいだ。イノシシ男の行方は分からない。病院に運ところは伏見が見たらしいが、いつの間にか姿を消していたみたいだ。
俺の意識が戻った後、警察に事件に関する関係者から事情を詳しく聞きたいと言われ、事情聴取に応じていた。質問には素直に答えたし、変身をして能力まで見せたのに、なぜか警察は信じてくれなかった。おそらく神使たちから認識を操作されているのだろう。
そうでなければ説明がつかない。会話は成立しているのに、まるで俺のことが見えていないかのような違和感があった。彼女が警察に事情を話さなかった理由が、ようやく俺にも理解できた。それでも俺は諦めず何度も説明した。だが最後には、警察の方が根負けしたようで『もう、帰っていいよ』と優しく諭されてしまった。俺は本当のことしか話していないのに可哀そうな人を見るような目を向けられるなんて。……まあ、とはいえ、病院で軽く検査されただけで家に帰らされたのは嬉しい誤算だった。安心した。これで家族には報告がいかない。つまり、家族に迷惑がからないってことだからだ。
「……それにしても、貧血なんて生まれて初めてだな……」
「え、そうなんですか? それは羨ましいですね。……やっぱり、まだキツイですか?」
「ああ。病院で目を覚ましてから、吐き気と脱力感がずっと消えない。今日だけで、三回も人生最悪の目覚めを更新するなんて思わなかったよ」
「まあ、無事だったならいいじゃないですか。死んでいないなら、安いものです。それに、優斗さんが言っていた、最高にカッコイイヒーローになるという目標は達成できたと思いますよ? 紆余曲折はありましたが、これで一件落着です!」
警察の事情聴取から解放された俺たちは、一度横浜駅に戻って来ていた。
数時間拘束されていたせいで、すでに夜は更け、月が昇っている。雨上がりの空は澄んでいて、雲の切れ間から覗く月の光が、静かに街を見下ろしていた。駅の街灯は、濡れたアスファルトを淡く照らし、足元にぼんやりとした光の輪を描いている。
ゴールデンタイムはとっくに過ぎているのか、横浜駅にはほとんど人がいない。人の気配が消えた駅前は、まるで映画のセットのように静まり返っていた。聞こえるのは前方を歩く伏見の靴音だけだ。それ以外は何も聞こえてこない。その音が、妙に心に染みる。
っていうか、俺たちは終電を逃してしまったので、これから歩いて帰らないといけない。距離は一駅分。普段なら気にも留めない距離だ。だが、さすがにこんなに体調が悪い中、徒歩でマンションに帰るのは無謀すぎるよな。意識をしていても頭がぼんやりとして、足元がふらつく。これは、どこかでタクシーを捕まえないとダメだ。
そんなことを考えながら、俺は伏見の会話に応対する。彼女の声は、この静けさに溶け込むように優しく響いていた。その明るさが、今は俺には眩しく感じる。
「……最高にカッコイイ、ヒーローか……」
「はいっ! それに、あの能力も凄かったですよね! イノシシ男を一撃で倒してしまうなんて、刀を振るって敵を倒すあの姿はまさに正義のヒーローって感じがしましたよ?」
「いや、抜かない刀こそが正義の証明だよ。正義っていうのは『正しさ』と『義ぶりさ』。その両方がなければ、ダメなんだ。釣り合いを取らないと、正義って言葉が暴力を肯定する都合のよい言い訳になってしまう。さっきの、イノシシ男の顔を見ただろ? 俺にどれだけ正当な理由が合っても、あの顔をさせてしまった時点で、今日のあれはただの暴力だったんだ。自慢していいことなんて、何一つない……」
「え、どうしたんですか? テンションが低くないですか?」
「逆だよ。逆に、今までのテンションが高すぎたんだよ。非日常に巻き込まれたのせいで完全にいつもの調子を見失っていた。今日の俺は、俺らしくなかったんだ……」
「……私には難しいですね。いや、ここは厳しいと言うべきでしょうか? どちらにしても私には良く分かりませんね。私たちはキングスクエアにいた皆を助けることができたじゃないですか? 優斗さんがしたのは正当防衛ってヤツだと思いますよ?」
「それは、そうなんだけど……もっと完璧にできたと思う」
「優斗さんは完璧主義者なんですか? それは自分に厳しすぎると思いますよ」
「いや、もっと速く、この能力があったら一人も負傷者を出すことはなかったかもしれないのに……」
「そうかもしれません。ですが、優斗さんは真面目が過ぎます。ヒーローを目指して初めてあの結果なら、十分スゴかったですよ。素直に自分を褒めてあげるべきです!」
「真面目だとダメなのか? 本気でやると決めたのなら常に最善手を考え続けないといけないものだろ? 真面目にするって、当たり前のことなんじゃないのか?」
「それは、意識の持ちようではないでしょうか? 本気で何かに取り組むというのは誰にもでもできる素晴らしいことですけど、すぐに疲れちゃうものですからね。知っていますか? 人間が全力で走り続けるのは、せいぜい六十秒から九十秒が限界だとも言われています。本気って、短期なんですよ。大切だからこそ、趣味くらいの気持ちで取る組んだ方が、長く続けることができますし、結果的に上手くいくと思いますよ」
「……そういうものなのか?」
「はい、そういうものです!」
思わず漏れた俺の声は、自分でも驚くほど弱弱しかった。だが、伏見はそんな俺を責めることなく、ニッコリと花が咲くような笑顔で笑いかけてきた。その笑顔はまるで魔法のようだった。どんなに適当なセリフでも、彼女の口から言われると不思議なことに本当のように思えてしまう。きっとそれは、伏見の能力ではなく、人柄のせいだろう。
彼女の声には、理屈も道理も無視した不思議な説得力があった。
今日の昼。日吉も『肩の力を抜け』と言っていたけど、あれはこういうことを言いたかったのかもしれない。やっと少しだけ意味が分かった気がする。あのときは、言葉の裏を読もうともせず、ただの励ましだと思っていた。でも今の俺なら、あの言葉の裏に、奥にある優しがが分かる。伏見も日吉も、要するに『もっと楽しめ』と伝えたかったのだ。
きっと、二人とも『楽(らく)をしろ』ではなく、『過程も楽(たの)しめ』と言いたかったのだ。
ヒーローになりたい。そんな夢の過程を楽しめって、少しばかり不謹慎な気がしないではないけれど。結果ばかり求めたら、どうしても疲れてしまうよな。それに、夢を追うっていうのは本来、他人に強制されるものではなく、囚われるものでもない。もっと自由で、楽しいもののはずだったはずだ。……なんだろう。とても胸に刺さる言葉だ。
俺はいつも結果ばかり見ていて、過程なんて一切見ていなかったな。
だから、あんなに大切だったはずの夢も、いつの間にか忘れていたのだ。
誰かを助けたいという『結果』ばかり追い求めていたから、何故その夢を抱いたかをという『過程』を覚えることができなかったのだ。まあ、まさに——
「まさに、肩の力を抜けってことだな……」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に渦巻いていた将来への不安が、すっと消え失せていた。まるで、長い雨のあとに差し込む一筋の光のように。今の俺なら、ほんの少しだけ自分の足で前に進める気がした。大学生。それは四年間という、一生のうちで考えると長いとも短いとも言えない時間を費やし、子供から大人へと変わる蛹の時期。そして、蝶になって飛び立つ方角を定めなければならない時期でもある。
内と外の天秤が釣り合う日がくるのかなんて、俺が実際に二十歳、三十歳になってみないと分からない。だけど、いざ大人になってから『ああ、しておけばよかった』と後悔しないようにしたい。
不器用でも、遠回りでも、今の俺にできることを。過去に向き合ってみようと思う。いつか大きな失敗をしないために、小さな失敗を積み重ねていこう。そう決心した俺は、そこで一度考えることを止めた。頭を空っぽにして、伏見の後ろ姿を追うように歩を進める。会話はない。コツコツ、コツコツ、と二人で夜の街に靴の音を響かせる。
冷たい夜風が俺の頬を優しく撫でた。この静かな街の中で、俺たち靴音だけが確かに存在している。そんな不思議な感覚に包まれていた。この夜を伝える風はどこまでも自由で、俺たち二人の存在を、どこか遠くにまで運んでくれるような気がした。前を歩く伏見の小さな背中。俺はその背中を見ながら、柄でもなく感傷に浸っていた。今回の件で、新たに芽生えた情緒に身を任せて。そして、そこで、ふと重要なことを思い出した。
「あ、しまった! コーヒー代払っていないっ!」
思わず張り上げてしまった声に、伏見は驚いた様子でこちらに振り返る。彼女はビクッと身体を震わせ、立ち止まり、目を丸くして俺を見てきた。
「な、なんだ。そんなことですか。……もう、驚かせないでくださいよ。背後でいきなり大声を出されたら驚いてしまうじゃないですか」
「それはすまない。だけど、これって食い逃げになるんじゃないのか? いや、異常事態だったから後日、謝罪もかねてお金を払いに行けば許されるのか? だけど——」
「はぁー、安心してください。優斗さんの代金も私が払いましたよ」
「え、なんで?」
「なんで、って私が優斗さんを無理やり『メルヘン』に連れて行ったんですから、コーヒー代くらい持ちますよ? それは、普通のことでしょう?」
「……⁉」
「なんでそんなに驚いているんですか? それ、とっても癪な反応ですからねっ!」
「あー、いや。すまない。本当に感謝はしているんだけど……伏見の返しがあまりにも常識的すぎて驚いている。伏見は、もっと破天荒なイメージがあったからさ」
「破天荒って、絶対にいいイメージを持ってなかったでしょう!」
「……そ、そんなことはないぞ」
「本当ですか?」
「ああ、本当だ」
ジト目でこちらを睨んでくる伏見から逃げるように、俺はそっと視線を逸らした。俺のその仕草に、視界外にいる彼女が小さく笑ったような気がした。
「まあいいですよ。それで? これからどうしますか? 優斗さんに時間があるなら、カラオケでも祝勝会をしますか! 二次会でも、お祝い会でも、誕生日会でも、何でもいいですよ! 今日は、朝まで付き合います!」
「いや、さすがにそれは遠慮しておく。もう夜も遅すぎるからな。祝勝会をするにしても日を改めよう。それに、血を流し過ぎたせいで身体がダルイ。今は、家に帰って身体を休めたい。明日も大学があるからな」
「……あー、そうですよね……」
すると、伏見の声も急に小さくなった。さっきまでの勢いが、弾んでいた声が、嘘だったかのように言葉の端が曇っている。その変化はほんの一瞬だったけれど、確かに感じ取れた。明らかに伏見の反応がおかしい。さっきまでの彼女とは違う。何かを隠しているような、そんな空気が漂っていた。どこかぎこちない。違和感がある。だから——
「うん、どうしたんだ? まだ、何か困ったことでもあるのか?」
だから、俺は思わずそう問いかけていた。奥歯に物が挟まっているかのような彼女の物言いに疑問を覚えてしまったから。イノシシ男のときは、すぐに信じることができなかったけど。もう彼女の助けを求める心の声を聞き逃さない。どんな小さなヘルプサインも、絶対に見落とさない。そんな決意を胸に、俺は真っ直ぐと彼女の瞳を見る。
「もしかして、まだ隠していることがあるのか?」
「あー、いえ。隠しているってわけじゃないです。ピンチはピンチなんですけど、意外となんとかなりそうですし。優斗さんにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないので……」
「ここまで来てそれは水臭いだろ? それに、大なり小なりピンチなら言った方がいいだろ? 何でも言ってくれ。安心しろ。俺は無理なことは無理とはっきり言うからな。助けられるのなら助けるし、力になれるなら力になるぞ?」
伏見は本当に申し訳なさそうに、ほんの少しだけ目を伏せた。だが、彼女はすぐに顔を上げて、いつもの調子を装うように咳払いを済ませると、言った。
「そうですよね。言った方がいいんですよね。えーっと、優斗さん。実は財布をお店に忘れてしまってですね。ほら、よくあるじゃないですか。お会計の際に、財布を置きっぱなしにするってやつ。どうやら私としたことが、そんな間抜けなことをしてしまったようです。だから……その、スマホも電車代も……なくて、ですね……。本当に申し訳ないのですが、一晩だけ泊めてくれないでしょうか?」
伏見は上目遣いでそんなことを頼み込んできた。表情は冗談交じりで、口調はどこまでも軽かった。だが、彼女のその瞳には、冗談の色は一切なかった。本当に困っているのが、言葉よりも先に瞳の必死さで伝わってくる。だから——
※ ※ ※ ※ ※
「お邪魔します‼」
マンションの一室。俺は伏見を、自分が生活しているマンションまで連れて帰っていた。
十八歳の少女をあのまま放置することを、俺の倫理観が許してはくれなかった。
それに、貧血のせいで立ち眩みを起こした俺を介護するようにタクシーを探しを手伝ってくれた伏見には、内心とても感謝している。というか、現代人ってスマホが使えないだけで、ここまで大変な生活を強いられるものなんだな。これはもはやキャッシュレス社会、強いては情報社会の弊害ともいえる珍事だろう。
俺も伏見も、普段から必要以上の現金を持ち歩かない生活をしているせいで、こんな事態になったんだ。今度から外を出歩くときには、中身が入っていなくとも財布ぐらいは持ち歩こう。そう、タクシーの中で静かに決めた。
「へぇー掃除はきちんとしているんですね。合格です」
「誰目線なんだよ。それに、俺だってまだ二週間しかここに住んでいないんだからな。部屋は広く、綺麗なままなのが当たりまえだろ?」
「失礼ですね、女性目線ですよ。あと、優斗さんは意外と世間を知りませんよね。この世には、入居してから一週間も経たずに部屋をゴミ屋敷にしてしまう人もいるんですよ。まあ、それはさておき、優斗さん。この部屋、大学生が一人で暮らすにしては、やけに広くないですか? というか、私の部屋より断然広いんですけど⁉」
「うん? あー、来年、妹がうちの大学を受けるんだよ。だから、ストレスがないように部屋は広いところを借りてくれってさ」
「……えっ、もしかして妹さんと一緒に住むんですか? 私も兄がいますが、一緒に住むなんて考えられませんよ。優斗さんの家は、ずいぶんと兄妹仲がいいですね? 羨ましい限りです」
「そうなのか? 俺たちの親は昔から忙しい人でな。なかなか家に帰って来なかったんだよ。そのせいで、ずっと二人で生活していたから。ずっと……あれ?」
伏見と話していたが途中で、ふと記憶の奥に引っかかるものがあった。少しだけ胸がざわつくような奇妙な感覚。その正体が何なのかを俺が考え始めるよりも先に、心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる彼女の視線に気が付いた。だから、頭の中に生まれたこの違和感を無視することにした。
「ん、どうかしましたか?」
「……いや、なんでもない。それよりも伏見。なんだかとても楽しそうだな?」
部屋に入ってから物珍しそうに家具やら小物やらを物色している。たぶん、今、彼女にキツネの尻尾がついていたら、あの黄金色の尻尾を左右に振って喜びの感情を露わにしていただろう。そのくらい、彼女の動きは生き生きとしていた。
「あ、バレてしまいましたか? 他人(ひと)の家って、大人になるとなかなか入る機会がなくなるから、ちょっとだけワクワクしています。小さな冒険みたいです」
「……俺にとっては見知った我が家だからな。面白くもなんともないけど……」
「ふふ、優斗さんにとってはそうかもしれませんね。あ、それよりも、良かったんですか? コンビニで私の分の食べ物まで買っていただいて……」
「ああ、伏見も俺も朝まで何も食べないわけにはいかないだろ? さっきから、胃の辺りがムカムカとするが、少しでも何か食べておかないと血が作れないからな」
俺は持っていたコンビニのビニール袋の中から、コーラを伏見に手渡す。袋の中には、他にも軽食やらお菓子やらが詰まっている。だが、今は伏見と話を続けることを優先したいので、ひとまず持っていたビニール袋を床に置いた。
「それは……そうですが……」
「お金の心配はしないでくれ。たぶん、まだ大丈夫だからさ。……それより、せっかく二人きりでゆっくりと話す時間が取れたんだ。有効活用する他ないだろう? さっそくで悪いが、伏見の持っている情報を俺にも共有してくれないか?」
「じょ、情報の共有ですか?」
「そうだ。まあ、確かに。共有といっても俺は何も知らないからな。伏見に教えてもらうばかりになるな。だから、言葉としては間違いかもな。でも、この先の戦いを乗り越える相棒として、先輩として、色々教授してもらえると助かる」
「あー、なるほど。そういうことですか。……えーっと、ですね、優斗さん。一つだけ致命的な誤解があるようなので訂正させてもらいますが、私は優斗さんは先輩後輩の関係じゃなくて、同級生なんですよー。だから、私も優斗さんと立場は同じ、っていうか……」
「……つまり、どういうことだ?」
「つ、つまりですね。頼りにされて恥ずかしいことなんですけど、私も優斗さんと同じでまだ何も知らないんですよねー」
「……はぁ?」
二度あることは三度あると言うが、今日だけで素っ頓狂な声を三回も上げるとは思わなかった。俺はパチパチと両目を瞬かせながらも、何とか口を開いた。
「それは、一体どういうことだ?」
「そのままの意味ですよ。私がこの戦いに参戦したのが今から二か月前のことです。そして、今日。イノシシ男との戦闘が初めての実践です! キツネは私に何も教えてくれなかったので、『本当に戦いがあるんだなぁ」くらいの情報しかないです。ごめんなさい!」
「なる、ほど。なるほど。伏見も俺と一緒で何も知らないってことでいいのか」
「はい、新入生同士、これからも仲良くしてくれると嬉しいです」
神に訴えるように俺は顔を上方へと向ける。頭がくらくらとするのは、天井にある照明が明る過ぎるせいだと思いたい。初心者同士。あまり者同士。そんな二人が、チームを組んで、これからどうやって先の戦いに乗り越えていけばいいんだ……
「……やっぱり、ダメでしょうか?」
シュンとした表情で伏見はそう呟いた。彼女の弱弱しい声を聞くと、昼間の不安そうに『夢が欲しい』と語るあの姿を思い出して、居心地が悪くなる。彼女には不安そうな顔は似合わない。似合うのは、明るい笑顔だけだ。
俺はトイレで彼女を信じると決心したはずなのに、揺らいでしまった。その結果、今も彼女を不安にさせてしまっている。これはヒーローではないよな。揺らぐのは、ヒーローっぽくない。だから——もう一度、パンと頬を叩いて気合を入れる。
「いや、覚悟を決めていただけだ! ゾンビに囲まれたとき『私の相棒になってください』って伏見が先に言ったんだからな。俺の期待を裏切ってくれるなよ!」
「……はいっ! このバトルロイヤルを二人で一緒に勝ち残りましょう!」
そう言うと、伏見はさっき俺が手渡したコーラを近づけてきた。なんとなく、彼女の意図を察した俺は、机の上に置いてあったもう一本のコーラを掲げる。そして——
「「乾杯!」」
コーラをぶつけて、乾杯した。
俺と伏見。二人の声が綺麗に重なり、缶同士が当たる鈍い音が部屋に響いた。
そして、ゴクゴクと喉を鳴らして冷たい炭酸水を流し込む。ジュースなんて久しぶりに飲んだが、炭酸の泡がチクチクと喉を刺激してくるせいで、水よりも爽快感がある。
「では、まず信頼への第一歩としてまずはお互いに名前で呼び合いましょう!」
勢い良くコーラの缶から口を離した伏見が、いきなりそんなことを言ってきた。その仕草は、さっきまで不安をすっかりと忘れてしまったように、真っ直ぐに俺を見つめてきた。
「名前で呼ぶ?」
「そうです。互いに名前で呼び合いましょう。私だけが優斗さんと名前で呼んでいる現状は少しばかり寂しいです。それに、そっちの方が相棒感ありません?」
「……それもそうだな。分かったよ。これからよろしくな、美結」
「はい、よろしくお願いしますね。優斗さん!」
一蓮托生。この戦いの結果がどうなったとしても、これで最後まで伏見と俺は仲間として行動と運命を共にすることになった。コーラ同盟だ。これから先どんな苦難が待ち受けていようとも、絶対に裏切らない、信用できる仲間が隣にいるだけで、乗り越えられると思えるのは、さすがに単純すぎるだろうか?
「……それよりも優斗さんって、映画鑑賞が趣味なんですか?」
「いや、別にそう言うわけじゃないけど。あー、でも。栞が……うちの妹が、映画や読書とかインドアなことが好きなんだ。だけど、よく分かったな?」
「ふふ、簡単な推理ですよ。一人暮らしの部屋にわざわざでモニターまで持ち込んでいるってことは、映画鑑賞が趣味なのかと思いまして。それに……ソファも、照明も、サイドテーブルもかなりこだわっているなー、と一目で分かりました。なるほど、妹さんの趣味でしたか……なるほど、なるほど」
美結は納得したように何度も頷いた。その様子が、なんだかとても微笑ましい。部屋の中を見渡す彼女の目は、好奇心に満ちていた。
「……もしかして、見たいのか?」
「いいんですか⁉」
俺のその一言に、美結の目がぱっと輝いた。さっきまでの落ち着いた空気が一気に跳ね上がった。彼女のテンションの切り替えが早すぎて、俺の方がついていけない。
「て、テンションが高いな。まあ、いいけどさ。……それで、何が見たいんだ? 確か、栞が色々なサービスに登録していたからな。たぶん、美結の好きな映画もあるとは思うけど。……受験生だからって、時間が取られる趣味の道具をほとんどここに置いて実家に帰ったからな。かなり充実してるぞ」
「えーっと、そうですね。なら、今の気分的にはゾンビ映画が見たいですね。このモニターから血が噴き出してきそうなほど、本格的なやつを」
「ゾ、ゾンビ? 昼間あんなことがあったのにか?」
「はい、昼間にあんなことがあったからですよ! 『ショーン・オブ・ザ・デッド』とか『ゾンビランド』や『カメラを止めるな!』とか『ゾンビシャーク』でもあっても、今見たら、たぶんすごく怖いんだと思うんですよ! 臨場感を味わえるっていうか。こんな機会、めったにありませんよ⁉」
彼女はこくりと首を縦に振った。
その表情は、まるで子供が遊園地の地図を広げているような純粋な期待に満ちていた。あんな刺激的な経験をしたら、普通の人はゾンビ映画なんて嫌がるだろう。少なくとも俺はもうお腹いっぱいだ。もしかしたら彼女は、怖さや不気味さの中にある『楽しさ』を見つけるのが得意なのかもしれない。人生エンジョイ勢ってやつだ。俺には、理解できないタイプの価値観だ。どけど、正反対だからこそ、少しだけ羨ましくもある。
「ほら、ホラー映画を見た後に肝試しをしたくなりませんか? 怖くて嫌だけど、楽しいみたいな。……不謹慎なことですがお化け屋敷みたいでちょっとだけ楽しかったですよね。いや、思い返してみればですよ? 優斗さんが刺された時は死ぬかもしれないって、本当に不安だったし、ゾンビに襲われた時には泣きそうなぐらい怖かったです。でも、今思えば、ゾンビ映画の登場人物になったみたいで楽しかった、みたいな? それにショッピングモールっていうのもズルいですよ。あれって、ゾンビ映画の定番(おやくそく)じゃないですか! ゾンビ映画好きが一生で一度は経験したいことを、今日、私たちは偶然にも経験できたんですよっ! それを活かさない手はないですって!」
「……ほ、ほんとうに逞しいな。伏見って。まあいいよ。ゾンビ映画を見ようか」
「はい、その返事を待っていました! 今晩は寝かせませんからね。徹夜でゾンビ映画を見続けましょう!」
「いや、俺って一応怪我人だからな。できる限り付き合うけど、眠たくなったら寝るよ」
「それじゃあ、何から見るか話し合いましょうか。……その前に洗面台を貸してもらえませんか? それと、できれば優斗さんのメイク落としと化粧水を……」
「え? 構わないけど。妹のじゃなくていいのか? そもそも、伏見に化粧水って必要なのか?」
「必要なのか、って化粧水は江戸時代からある乙女の必需品ですよ! 必要に決まっているじゃないですか。そんな時代錯誤なことを言ってると、十年後にオジサンになってから後悔しますからねっ! それと、妹さんの私物を勝手に使うのは、いくらなんでもマナー違反ですよ。同性でも共有するのが嫌って娘(こ)は珍しくないですから」
「そうなのか? 栞のヤツはそんなこと気にしないと思うけど……」
「いや、気にしないからって、こちらが気を遣わない理由にはならないじゃないですか。こういうのは気を遣いすぎてダメってことは絶対にないんですからね!」
「そういうものか。……あ、そうだった。引っ越し祝いに母の会社の試供品をたくさん押し付けられたっけな。それで良かったら使うか? 美結が気に入るかは分からないけど、洗面所の前にまとめて置いたはずだから——」
「本当ですか! ありがとうございます!」
俺の言葉を途中で遮るように彼女は感謝の言葉を口に出し、深々と頭を下げた。その動作は礼儀正しく、彼女が親に厳しく育てられたのだと伝わってきた。と、俺が思ったのも束の間。次の瞬間にはドタドタと慌ただしく、俺の寝室がある方へと走り去ってしまった。
「あ、おい! 洗面所はそっちじゃないぞ……って、聞いてないし。本当にスゴイ、忙しいやつだな。俺の倍の速度で生きているのか?」
言葉は届かず、彼女は勢いそのまま廊下の奥へと消えてしまった。走り去った彼女の背中を見ながら、俺は小さく息を吐いた。部屋中をかけまわる彼女の動きは、見ているだけで目が回りそうだった。昼。横浜駅を歩く人々を見て、生き急ぎすぎだと感じた。だが、彼女はそんな人たちの中で最も生き急いでいるな。
彼女の人生は、夢がなくても楽しそうに見える。人生を一秒も無駄にしたくない、そんな気迫が全身から滲み出ていからだ。だが、まあ。それは俺が他人だからそう見えているだけだろう。彼女も、こんな馬鹿げた戦いに自らの意志で参加するくらいには、焦っていたはずだ。人が何を考えているかなんて分からないし、自分の中にある人物像なんて、案外当てにならないものだ。彼女を見ていると、本当にそう思う。
「……まあ、暇だし。準備くらいはしておくか……」
俺も時間を無駄にしてはいけないと、映画を見る準備を整えるべくモニターの電源を付けた。リモコンを手に取り、ソファに座り直す。静かな電子音が部屋に響き、画面の光でほんの少しだけ部屋が明るくなった。後は、彼女の帰りを待つだけだ。そのとき、ふととあることに気が付いた。俺は今、映画を楽しみにしている。美結に付き合わされたはずなのに、一緒に映画を見る時間を、心のどこかで待ち望んでいる自分がいる。そのことに驚くのと同時に——俺は、そんな温かな感情を抱ける自分がまだいたことに、ほんの少しだけ嬉しくなった。
※ ※ ※ ※ ※
時間としては、あれから二本目の映画が中盤に差し迫ったくらいだった。
俺は彼女をほったらかしにして、コンビニで買った商品をレンジで温めていた。
温かなオレンジ色の光の中でくるくる回っているレバニラを見ながら、別のことを考えていた。そう眠れないのだ。俺も途中までは美結と一緒に映画を見ていたが、十二時を回った時計を見て、さすがに明日の大学の講義に遅刻するな、と思った俺は栄養になるものを食べて寝ることにした。だが、問題は眠気がまったく来ないことだ。
ついさっきまで病院のベッドでぐっすりと眠っていたせいだ。眠気が来ない。おかげで完璧に調整したはずの体内時計が狂ってしまった。
「はぁ、明日って何限からだっけ?」
そう思って、俺がスマホの電源を付けると、メモアプリの存在が目に飛び込んできた。今、何かを忘れている気がする。直感的にそう思った俺は、すぐにアプリを起動して、メモの内容を確認した。すると——
「あ、キッチンペーパー買ってなかったな……」
アプリを開くと、簡潔に『キッチンペーパー』とだけメモが残されていた。栞から激しい物忘れの予防として無理やりインストールさせられたアプリだ。なかなか使い勝手がいいとも思っていた。それなのに、アプリを開かなかったら何の意味もない。
「さっきコンビニに行ったのに。……どうしよう?」
思い出してしまったからには、何とかしないと気持ち悪い。
これを解決しないと、もうスッキリと眠ることはできないだろう。
モヤモヤとした気分のまま眠ることが確定した瞬間だった。
いや、待て。今からコンビニに行けばいいんじゃないか?
眠気はまだない。ここからコンビニにまでは徒歩十分弱くらいの距離だ。それに、適度な運動は眠気を誘うとどこかで聞いたことがある。それを実践するときがきた。非日常の締めには、夜風を浴びて、夜の散歩に洒落込むのもいいかもしれない。
朝の寝坊から、昼のイノシシ男など。今日は、非日常的な出来事の連続だった。
だから、せめて夜だけはいつも通りに過ごしたいと思っていたのだが、ここまできたら最後の最後まで変わったことをして締めた方がいいのかもしれない。
「なあ、美結。買い忘れたものがあるから、もう一度さっきのコンビニ行くけど何かいるものあるか? それとも一緒に行くか?」
モニターの前にあるソファを陣取り、映画を見ている伏見に向かって話しかける。すると、スピーカーから爆発の音が聞こえてきた。男女の話声も聞こえる。どうやら最終場面に突入したばかりのようだ。だが、彼女からの返事はいつまで経っても返ってこない。そのことに疑問を覚え、扉越しに彼女の様子を覗いてみると——美結は小さな寝息を立てて眠っていた。徹夜をすると宣言していたのが嘘だったかのように、ぐっすりと眠っている。
「……はぁ」
よく初対面の男の部屋で寝られるな、という呆れを言葉にしようかとも思ったが、寝ている彼女を起こしてしまうのは良くない。やはり彼女も、イノシシ男との戦闘で心身ともに疲れていたのだろう。俺が目を離した少しの時間で眠ってしまった。感情表現が豊かだとは思っていたが、ぐっすりと涎を垂らして寝ている姿は、どこか栞と似ている。その無謀さに、思わず苦笑いを零してしまう。俺は、栞のために用意していた掛布団を美結にかけて、一人で静かに部屋を出た。
※ ※ ※ ※ ※
美結をひとり家に残して、マンションから徒歩十分ほどのコンビニでキッチンペーパーとお茶を購入した。電子決済の独特な音声が鳴るのを確認して、コンビニ店員の「ありがとうございました」という言葉を背に受けながら、来た道をたどって帰路に就く。
必要なのはキッチンペーパーだけだったが、コンビニで一つの商品だけを買うことに妙な申し訳なさを感じてしまい、ついでにお茶を買ってしまった。この現象に、いつか名前を付けたい。人間は何故、こんな些細なことにも罪悪感を抱くのだろうと、そんな取るに足らないことばかり考えてしまう。……いや、考えずにはいられなかった。
何故なら、夜道が怖いからだ。コンビニに向かうときは気にも留めていなかったが、コンビニから俺の住むマンションまでの道のりには人の気配まったくない。不気味なほど静まり返っている。日本の有名な童謡『とうりゃんせ』の一節に「行きは良い良い、帰りは恐い」とあるように、帰り道は特に気をつけなければならないのだ。それが人通りのない夜道なら、なおさらだろう。
「…………ッ……」
コツコツという足音が後ろからついてくる。それが自分の足音だと分かっているのに、誰かが後ろにいるような気がして、何度も振り返ってしまう。夜道が怖いと感じるのは、いつ以来だろう。さっき見たゾンビ映画の影響で、想像力が妙に活性化してしまったようだ。自分が未知の脅威に襲われるシチュエーションが、嫌というほど頭に浮かぶ。正直に言えば、後悔している。美結につられてゾンビ映画なんて見るんじゃなかった。
いや、それ以前にキッチンペーパーくらい、明日の朝に買いに行けばよかったのだ。だが、そんなことを考えてももう遅い。後悔先に立たずとは、まさにこのことだ。俺は一度、歩道の真中で立ち止まり、目を閉じて、少しだけ深めに息を吐き出す。あともう少しで家に着く。そう自分に言い聞かせ、足早にこの場を去ろうとゆっくりと目を開ける。
——その途端、違和感が滲んだ。
冷たい夜風に紛れて、人の気配がした。
だが、目に見える範囲には誰もいない。
近くにある自販機の駆動音だけが、妙に大きく響いているだけだ。
気のせいだと自分に言い聞かせる。だけど、真っ白なキャンバスに白い絵の具を一滴垂らされたかのような違和感が、じわじわと広がっていく。それが、どうしても頭から離れてくれない。どうやっても、頭の片隅に引っかかってしまう。まるで分厚いガラス越しに誰かがこちらを覗き込んでいるかのような薄気味悪さだ。
直感が、警鐘を鳴らしている。俺はこの違和感の正体を掴むために、四方八方を睨むように視線を走らせ、威嚇するようにバチ、バチッ、と青白い電光を放った。全身から雷光が瞬き、周囲の影が大きく揺れる。そして、その次の瞬間——
「鹿島優斗さんですよね?」
「——ぅッ‼‼」
背後から突然、女性の声が聞こえた。
耳元で囁かれた可愛らしい声に、心臓が跳ねる。
俺は悲鳴を上げるのだけはなんとか堪え、女性の声のした方へ恐る恐る振り向いた。そこには、いたずらに成功した子供のような、あどけない笑みを浮かべた少女がいた。その少女は、俺と目が合うと同時に、ゆっくりとこちらに向かって歩を進めてきた。
「びっくりしました?」
「……君は?」
こちらを煽るように距離を詰めてくる少女の問いに、俺は警戒心をあらわにしながら尋ね返した。まだ幼さを残した顔立ちからして、年齢は十五か、六歳くらいだろうか。ギャルっぽい見た目で、ブレザー制服を着崩している。恐らく、近所にある高校の生徒だろう。十二時を過ぎた深夜に女子高生が一人で外出していることは、さすがにいただけないが、確か近くに高校があったはずだ。だから、そこには疑問はない。……いや、これは他に疑問点が多すぎて、頭の中にあった些細な違和感が吹き飛んでいるだけだな。だが、少女は美結のように普段から趣味でコスプレをしているというわけではなさそうだ。何というか、学生服に着られているわけではなく、学生服をナチュラルに着こなしている雰囲気がある。
「うーん、そうですね。あなたと同じ
そう言うと、少女は俺の顔色を覗き込むように前屈みになり、柔らかそうな尻尾をゆらゆらと見せつけるように振ってきた。その仕草に——いや、その尻尾に、俺は昼間に『メルヘン』という名の喫茶店で起こった出来事を思い出した。こいつ、イノシシ男の仲間だ。そう判断した俺は、咄嗟に後ろへ飛び退き、少女から距離を取った。
「ふふ、安心してください。あなたと戦うつもりはありませんよ。……まあ、本当は姿を見せるつもりもなかったんですけどね……」
距離を取ったことに不満でもあるのか、少女はムッとしたようにそう呟いた。
少女にバレないように俺は、何が起きても対応できるように神経を研ぎ澄ませた。少女の一挙手一投足に目を向けながら、頭をフル回転させて状況を整理していく。しかし、どうしても情報が足りない。少女が俺の前に姿を現した理由が、目的が分からない。すると、少女の方から俺に声をかけてきた。
「そこまで警戒しなくても大丈夫ですよ。むしろ、安心してください。初心者さんにはサービスとして、何でも答えてあげますよ?」
「……何でもか」
「はい、何でもです。……あ、でも。最初に言っておきますが、エッチなのはダメですからね? 耳や尻尾のサイズは乙女の秘密です。触れることも赦しません。将来、私の伴侶になる素敵な人にしか触らせるつもりはありませんので」
「……」
俺は得体の知れない少女の言葉を無視して、何と質問するか慎重に思案する。
せっかく向こうからチャンスをくれると言うのなら、乗らない手はない。美結は嘘か誠か知らないが情報を何一つ持ってなかった。だから俺も、不明な点が多すぎて困っていたところだ。情報がなければ、対策も立てることができない。だから、少女のこのきまぐれは、俺にとっても美味しい話のはずなんだが……少女の演技っぽい口調のせいで、どうにも信用できない。信憑性に欠ける。
「フフフ、しっかりと頭を使っていますね。いい子、いい子です」
少女は、この状況を明らかに楽しんでいる。
まるで愉快犯だ。それに年下のはずなのに、どこか上から目線なのは俺のことを舐めているからだろう。『初心者さん』という呼び方からも、小馬鹿にしていることがよく伝わってくる。言動の節々から滲み出る少女の余裕がある態度は、それだけ彼女が持つ能力の強さを物語っているのかもしれない。まあ、単に生意気なだけかもしれないけど。
「……」
そこで俺は一度、思考を止めた。いや、見方を変えたと言った方が正しい。
これ以上、少女の能力や性格——『内面』ばかりに目を向けていたって仕方がない。能力を素直に聞いても、答えてくれるとは思えない。それに、少女の機嫌を損ねて、何も情報を得られないのは本末転倒だ。なら、少女の『外側』から得られる情報だけでも手に入れよう。そうだな、まずは手始めに——
「その尻尾、タヌキか?」
「はい、正解です。ですが、いきなり女性の尻尾を凝視するなんて……鹿島先輩は随分とマニアックな趣味をお持ちなんですね?」
「……そういうものなのか? それは、すまない……」
少女のふさふさとした尻尾が、夜風に揺れていた。ふわり、ふわりと風に乗るように動いている。濃い茶色と黒色の縞模様。筆のように太く、短く、丸みを帯びた形。毛並みは艶やかで、街灯の明かりを受けて、淡く光っているように見える。そんなタヌキの尻尾が、まるで俺の意識の隙間に入り込むかのように揺れていた。挑発的に揺れていた。それが、視界に入るたびに気が散って仕方がなかった。
「……冗談ですよ。何だかやりづらいですね。他に質問はありますか?」
「なら、次だ。君の名前は?」
「それは秘密です」
「……何なら教えてくれるんだよ?」
何でも聞けと言っておいて、まさか名前すら教えてくれないとは思わなかった。
イノシシ男もそうだったが、最近の若者は名乗らないのがトレンドなのかもしれない。
「なら、なんで俺の名前を知っていたのかはどうだ? それくらいなら答えられるだろ? 俺は今日の昼、初めてこの戦いに参加したんだ。あいつはともかく、俺の名前を君がもう知っているのはおかしいだろ? ……あ、いや。俺がもし忘れているだけで、君と初対面じゃないってだけなら、すまない。先に謝っておく」
「……ふふ、安心してください。私たちは初対面ですよ。ただ、
「なら、どうして君は俺の顔を知っていたんだよ? 話しかけてきたってことは、俺の顔をどこかで……少なくとも、ここで君と出会う前に、俺の顔を知っていないといけないだろ? もしかして『情報屋』っていうのは、能力の情報だけじゃなくて、俺たちの顔写真までくれるのか?」
「うん? ああ、それは、決まっているでしょう? 私も今日の昼、あそこにいたというだけのことです。今日は調子が悪いのか、彼女もだいぶ渋ってきましてね。名前と能力だけしか教えてくれなかったんですよ。それにしても……二人とも、ずいぶんなご活躍でしたよね。あの初狩りたち相手に。……あ、そうだ。思い出しました。これ、彼女の忘れものです。鹿島さんから、返してあげてください」
そう言うと、少女は俺に向かって無造作に何かを放り投げてきた。長方形の物体だ。それを俺は、少女から目を離さずに片手でキャッチした。
「……これは、財布か?」
「はい、それは伏見さんのものです。会計のときに忘れてしまったみたいです。なので、私が回収しておきました。もしどうしてもお礼がしたいというなら、あの美味しそうなチーズケーキセットでいいですよ? 伏見美結さんに、そう伝えておいてください」
美結は『メルヘン』で会計を終わらせたが、その後イノシシ男に襲われて財布をどこかに忘れてしまったみたいなこと言っていたな。つまり、この少女はキングスクエアの建物内にいたということだ。それどころか、美結の注文内容を知っている口振りから、俺たちが『メルヘン』にいた頃にはすでに、少女は美結のことを見ていたのだ。ずっと。
「荷物はしっかりと持っていないとダメですよ? 何が神器なのかは、本人にしか分からないんですから」
「……ご丁寧にどうも。これからあいつには気を付けさせるよ」
正直、手のひらの上で転がされているような感覚が拭いきれない。
——そもそもこの少女は何が目的なのだろう?
圧倒的に情報が足りていない。後手に回り過ぎている。
少女がイノシシ男との戦いを見ていたのなら、俺の能力はもう知っているはずだ。白い鹿に与えられた俺の能力の名は『鹿鳴』。できたことは『稲妻のような速さで移動する』ことと、『何でも斬れる雷を具現化する』ことくらいだ。白い鹿は俺に言った。『汝の能力とは、汝の心の本質であると知れ』と。正直、その言葉の意味はまだよく分かっていない。だが、直感的に、感覚的に、本能的に、俺は与えられた能力の使い方は理解できた。
それなのに、俺の能力を知っているはずなのに、少女は俺から逃げることができると判断したのだ。だからこそ、堂々と姿を現したのだろう。もしくは——俺をここで倒せるほど、強力な能力を持っているかだな。そうじゃないと、わざわざ姿を見せない。いや、それとも彼女が、無関係の人たちを操って俺たちを襲わせていた『黒幕』なのか?まあ、どっちでもいいか。今、この場で最も重要なことは一つだけ。この少女……タヌキ少女と呼ぶことにしよう。このタヌキ少女は、どうやら俺とここで一戦交えるつもりはないらしい。俺よりも強く、速い能力を持っているかは分からない。見てないからな。だが、タヌキ少女は俺の背後から現れた。不意打ちができたはずなのに、しなかった。
それだけは事実だ。なら、タヌキ少女が望んでいるのは俺たちとの『対話』だ。タヌキ少女の好意的な態度も、俺たちとの対話が目的だからだろう。そう判断した俺は、タヌキ少女への警戒を少しだけ緩めて対話に応じる。そして、ただ応じるだけじゃダメだ。俺たちの能力はすでにバレている。なら、こちらから仕掛けないといけない。そうじゃないと、タヌキ少女は俺たちから攻め落とすだろう。何もできない、何もしない、何も知らない、そんな格好の獲物だと見なされる。弱肉強食。どこかで攻める気概を見せなければ、この戦いでは一方的に狙われるだけだ。今、タヌキ少女は見定めているのだ。俺たちが獲物か、捕食者なのかを——
「もしかして、イノシシ男の仇討ちをする気なのか? 言っておくが、先に手を出してきたのはそっちだ。脱落したお仲間さんの仇討したい気持ちは理解できるが、昼間と同じように大勢の被害を出すつもりなら——今度こそ、俺が止める。いくら貧血で、体調が悪くたって、ここでお前と戦う覚悟はあるぞ?」
「イノシシ男? ……ああ、和気さんのことですか。私と彼は厳密には仲間ではないですよ。同じグループにはいますが。ほとんど会話をしたことありません。それに、彼はまだやられていませんよ。鹿島さんは、和気さんを倒しましたが、それだけです」
「倒したのに、倒せていない……って、どういうことだ?」
「……どうやら、本当に何も知らないみたいですね。お二人は力を合わせて、和気さんを何とか倒せはしましたが、彼の『神器』を破壊していないでしょう? だから、和気さんはまだ脱落していないですよ? また、襲いかかってくるでしょうね」
タヌキ少女は「そんなことも知らなかったんですか?」と俺のことを嘲笑してきた。口元を隠すように手を添えて、こちらの悔しそうな表情を覗くように腰を曲げながら。今回の敗因は情報不足だ。こちらから舌戦を仕掛けたはずが、見事なぐらい返り討ちにされた。完膚なきまでの敗北だ。やはり、慣れてないことをするものじゃない。
俺は感情が表情に出さないように努める。恥ずかしさを顔に出したら、目の前のタヌキ少女にバカにされるのは目に見えている。だから、何も言わない。……それと、本当にどうでもいいことかもしれないが。キングスクエアで、俺たちを襲ってきたイノシシ男の名前は和気というらしい。柔らかい雰囲気があって、いい名前だと思う。そんな男が、どうしてキングスクエアを阿鼻叫喚の地獄絵図に変えたのか。まったく理解できない。
「……鹿島さんって、まったく表情が変わりませんよね。つまらないです……」
「どうでもいいだろ、そんなこと。それよりも、神器って何なんだ? 白い鹿に渡された能力ってのもまだ良く分かってないし」
「いいですよ、私が教えてあげますよ。えーっと。今さらですが、鹿島優斗さんですから、鹿島先輩と呼ばせてもらいますね。まだ、名前で呼び合うほど深い仲ではないですし」
「そもそも俺は君の名前を教えてもらってないぞ。タヌキ少女」
「タ、タヌキ少女ですか? また、なんという安直な。センスを疑いますね」
「……もし、そう呼ばれるのが嫌なら。いい加減、名前を教えてくれよ?」
「……名前を教えるのはまだ嫌ですが。代わりに『神器』について教えてあげますよ? 神器とはですね、簡単に言えばこのゲームの参加資格のことです。同時に
「つまり、この『神器』ってやつを取り上げれば俺は能力を使えず、一方的に他の
「はい、その認識で合っています。そして、相手を無力化する最も手っ取り早い手段が『神器』の破壊ですね。神器を破壊できれば、もう戦うことはできませんから。参加資格がなければ、ただの一般人に逆戻りです」
「破壊か。……なら、『神器』っていうのを、お前たちはどうやって判断しているんだ? 美結にも聞いたが、一目で分かるようなものでもないはずだろ?」
「そうですねー。基本、遠目で判別する術はありません。ただ、本人が大切にしている持ち物が神器になる場合が多いらしいですね。まあ、そんなこと聞いても律儀に答えてくれる
淡い緑色の勾玉が入っているポケットを指さして、タヌキ少女はクスクスと笑った。やっぱり、タヌキ少女は俺とイノシシ男との戦闘をどこか近くで見ていたようだ。イノシシ男の敵か、味方かは分からない。信用できない。だが、少なくとも俺の『神器』はもうすでに知られていると思った方が良さそうだ。今になって思えば、すぐに勾玉を拾い上げたあの行為はかなりの愚策だった。無防備に、弱点を晒しただけだった。
「……つまり俺は、この勾玉を破壊されたら……」
「安心してください。『神器』を破壊されるだけなら、死ぬことはありません。この神事(たたかい)の脱落者として、普通の生活に戻れますよ。あ、ただし。
タヌキ少女はさらりとそう言うと、ピコピコと耳を動かした。だが、愛嬌のあるその仕草とは裏腹に、少女の言葉はどこまでも冷たくて、嘲笑するかのような口振りだった。その声には優しさも配慮も何一つ含まれていなかった。自分が『脱落者』の一人になって泣きを見る可能性があるのに、まるで気にしていない。とてもいい性格をしている。いや、悪い意味で。タヌキ少女は、どこまでも自分の勝ちを疑っていない。負ける姿が本気で想像できないと伝わってくるような声色だった。
「ああ、だからか。警察が俺の話を聞いてくれなかったのは。おかしいと思ったんだ。目の前であの姿に変身したはずなのに無反応だったから。本当に、俺の話を認識できていなかっただけなんだな。安心した」
「ふふ、良かったですね。『祈る者』に選ばれた鹿島先輩は、これからどれだけエッチなことをしても、警察にお世話になることはないってことです」
「……『神器』の破壊。ってことは、それだけがこの神事(たたかい)からの脱落条件ってことでいいんだよな? 他にもあった気がするんだけど、病院で起きてからの記憶が曖昧でさ。白い鹿との会話をもうほとんど覚えていないんだ」
「そうですね。脱落条件は『神器』を破壊するのが基本です。もしくは
「………」
あっさりと殺人を肯定するかのようなタヌキ少女の口振りに、俺は思わず絶句してしまった。タヌキ少女の声は、先ほどまでと変わらず、俺のことを小馬鹿にするようなものだった。だが、どうにもその雰囲気が冗談には思えなかった。少女の言葉が、やけに重く響いたからだ。いきなり、現実という名の牙を剥き出しにされたような感覚だった。
「さすがに冗談ですよ。人を殺してまで叶えたい願いなんて、私にもありませんから」
「だよな。さすがに——」
「でも、これは私だからですよ?」
「……」
「私以外の
「……なら、君は、何が目的なんだ?」
いつまでも腹の探り合いをしていても埒が明かない。タヌキ少女のセリフが本心からのものなのか、それとも演技なのか。俺には判別できない。だから、素直に聞いてみることにした。タヌキ少女だって、
「……私と手を組みませんか?」
俺の予想をすべて裏切るように、タヌキ少女は静かにそう呟いた。さっきまでのふさげた態度とは違って、とても真剣な雰囲気だった。口調も、どこか切羽詰まっている感じがする。
「……もしかして、これがモテ期ってやつか?」
「調子に乗らないでください。貴方は私のタイプじゃありませんので……」
「冗談だよ。だけど、悪いな。その誘いには乗れない。俺には、先約があるんだ。だから、手を組むなら他の人をあたってくれ」
俺だって、タヌキ少女の真剣な誘いを無下にしたかったわけじゃない。ただ、タイミングが悪かった。コーラ同盟は、一蓮托生なんだ。この神事(たたかい)の結果がどうなったとしても、俺は最後まで美結の仲間として運命を共にすると決めたのだ。もう揺らがない。俺が裏切られることはあっても、俺の方から彼女を裏切ることは絶対にない。そして、俺がこの目で見た彼女——伏見美緒は、人を騙して平気な顔をできる人間には思えなかった。だから、そんな彼女だから、俺は信用してチームを組んだのだ。
「鹿島先輩と伏見美結さんがすでにチームを組んでいるのは、理解しています。その上で、私もそのチームに混ぜてくれませんかという話です」
「……三人でチームを組むってことか?」
「はい。三人以上の派閥(チーム)は、もう珍しくないんですよ。むしろ、人数が少ない派閥(チーム)ほど集中的に狙われています。現状では、五人派閥(チーム)が最大勢力ですかね?」
「ご、五人も。……だけど、そんなに人数がいるとすぐに争いが始まるんじゃないのか? この神事の勝者は一人なんだろ?」
「鹿島先輩がそう思うのも当然でしょうね。何故なら、私たちは大なり小なり自らの願いのためにこの戦いに参加したんですから。……でも、一人の女性がこの神事(たたかい)にルールを作ったんです。それが、結果的に派閥(チーム)作りを活発化させているんです」
「ルールを、作る?」
俺の声には、驚きと少しの敬意が混じっていた。イノシシ男や美結の戦闘を見て、キングスクエアのあの有様を見て、この神事は混沌そのものだと決めつけていた。白い鹿もルールはないみたいなことを言っていた、気がする。誰もが自分の願いのために動き、誰もが敵になり得るのだと思っていた。だから、ルールを作るという俺の予想外の発想に、それをなし得た人物がいることに、少しだけ興味が湧いた。
「はい。まず最初に言っておきますが、この『集まり』への参加は強制的ではありません。ただ、無関係な人々を巻き込まないようにという大義名分のもと、彼女が全国を回って、
タヌキ少女のその声に、怒りはなかった。無関係な人々を巻き込んだことも、ルールを破ったことも、対して気にしていない。むしろ、彼女は喜んでいるようにさえ見えた。
たぶんだが、根本的に俺とタヌキ少女は価値観が違うのだろう。自分のことを古参と呼んでいたが、この神事(たたかい)に長く身を置き過ぎているせいで、他人を慈しみ心を忘れてしまったのかもしれない。今もタヌキ少女は表面上、俺たちに情報提供をしてくれている。だが、それはどこか選別のようにも感じる。少女の目にはもう、誰が利用できて、誰が利用できないかしか見えていない。人間を道具にしか見ていない。そんな打算的な考えだけが、彼女の瞳には映っているのだろう。そんな彼女が、とても哀れだった。彼女はこの神事(たたかい)に囚われすぎて、何か別の……大切な物をすべて置き去りにしているような気がした。だが、それに気付いていても。俺には、少女に何と声をかければいいのか分からなかった。言葉が上手く出てこなかった。
「……それは、とても安心したが。……スゴイな。ルールのないこの神事(たたかい)にルールを作った人がいるのか。それも一人で。……一度、その人と会って話してみたいな」
これが、タヌキ少女の話を聞いた俺の素直な感想だった。その集まりを作った人物がどんな願いを持っているのか、どんな覚悟でこの神事に臨んでいるのか——純粋にそれを、知りたくなった。ヒーローになりたいと思っている俺の正義の在り方に、憧れに、最も近い人物のような気がしたから。
だから一度、きちんと本音で話をしてみたくなった。
「そうですね。彼女がすごいことを成し遂げたという点には、私も同感です。ただ、彼女は最初から五人の派閥(グループ)を作り上げていて、最強角の虎さえ自由に駒として動かせる立場にいる。おそらく、政治的な駆け引きが得意なんでしょうね。実に蛇らしい、巧妙で、姑息なやり方です。私は、どうにも彼女のやり方が好きになれません」
タヌキ少女の口調には、皮肉と嫉妬が混ざっているように思えた。その感情を、彼女自身も気付いていないのかもしれない。あるいは、気付いているが認めたくないのかもしれないな。だが、俺はタヌキ少女の内面を知るためにさらに一歩、踏み込んだ。
「……虎だの、蛇だの。動物の名前ばかりで呼んでいるんだな。もしかして君、本当は友達がいないんじゃないのか? 他の
半分は冗談のつもりだった。タヌキ少女の『内面』をもっと知るために、少しだけ揺さぶってみるつもりだったのだが——少女はいきなりキレてしまった。
「はぁぁっ! 貴方に気を遣って分かりやすいように動物の名前で呼んでるだけじゃないですかっ! 友達がいないって! そんなこと気にしたことありませんよっ! それに、まったくいないことはないですし! 私には、ポン——」
「ポン?」
「……っ、何でもないですよ。取り乱してしまいました」
タヌキの少女はわざとらしく咳払いした後「忘れてください」と言ってきた。その態度には、さっきまでの余裕が完全に崩れ去っていた。その姿はまるで化けの皮が剝がれたかのようで、目の前にいるタヌキ少女が初めて年相応に見えた瞬間でもあった。演じていた、強がっていた仮面がほんの少しだけずれてしまったような、そんな感じだ。
「もしかして、そっちの方が素なのか?」
「うるさいですよ。いますぐ閉じてください。その口を!」
「……倒置法?」
「――ッ‼ 次、何か、変なことを言ったら、先輩の外見を道路に捨てられたバナナの皮にしてやりましからねっ! 覚悟してくださいっ!」
「……それは、嫌だな」
タヌキ少女は恥ずかしそうに顔を赤らめて、悔しげにこちらを睨んできた。その表情は、さっきまでの余裕たっぷりな少女とまるで違っていた。別人のようだ。このままずっと少女の顔を見ていると、胸の奥でくすぐったい、何か変な感情が目を覚まそうとしていた。『いけない』と思った俺は、慌ててタヌキ少女から目を逸らした。直感的に、この感情を呼び覚ましてはダメだと理解した。触れるべきではない。ヒーローじゃなくなる。この感情は不要なものだ。呼び覚ましてしまうと、俺の中にある理想のヒーロー像からずれてしまう。揺らいでしまう。そのとき、少女は本当に疲れたような、深く、重たい溜息を吐いた。そして、再び俺の方を見つめてきた。そこにはもう、化けの皮が剥がれて、動揺していたただの少女の姿はなかった。一人の『祈る者』の瞳がこちらをじっと見つめていた。
「……はぁ、すぐに返事は期待していません。ここで即決できる人は、逆に怪しいですからね。私が三人でチームを組むことを伏見美結さんにきちんと伝えて、しっかり二人で話し合って決めてください。ただでさえ、冷戦状態で
彼女はポケッとからスマホを取り出すと、画面を点けた。液晶の眩しい光が彼女の顔を淡く照らしていた。
「……うわ、もう、こんな時間なんですか? 一時を回っているじゃないですか。鹿島先輩、警察に補導されるとめんどうなので私はもう帰りますね。……それでは、また近いうちに……」
タヌキ少女はそう言うと、くるりと背中を向けてきた。夜風に揺れる髪が、月明かりを受けて銀色にきらめく。俺は、彼女の小さな背中を見つめてながら、彼女の言葉の持つその意味を反芻する。そして、『また近いうちに……』が別れの挨拶だと気が付くと同時に、俺は正面を向き少女を捕まえようと手を伸ばした。ここで逃がすべきではない。そう思い手を伸ばしたのだが——
「あ、おい、まだ名前を聞いて……な、い……?」
次の瞬間、タヌキ少女が夜の闇に消えた。いや、正確には溶けたと表現した方が正しいかもしれない。それほど自然に、俺の目の前からタヌキ少女はいなくなってしまった。
「………狸に化かされた?」
思わず漏れた言葉は、冗談のようでいて、どこか本気だった。俺が話していたあの少女は、最初からこの世に存在していなかったのではないか——そんな錯覚すら覚えた。
もう誰もいないはずの夜道に、まだ薄っすらと少女の気配を残っている。何の変哲もない夜道が、今は妙に不気味に感じる。
底冷えするかのような夜風が背後から吹き抜けた。背中がぞわりとした。街灯の光がチカチカと点滅し、三日月が俺のことを嘲るように空に浮かんでいる。そんな夜だった。そんな夜になった。怖くはない。ただ、なんだか薄気味悪くなってきただけだ。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は足早にマンションに向かった。今はただ、四方が壁で囲われている部屋に帰って、夜風がない場所で気持ちを落ち着けたい。部屋に着いたら、涎を垂らしながらぐっすりと眠っていた美結を叩き起こして、タヌキ少女との出来事を聞かせるのもいいかもしれない。誰かに話さなければ、この夜の出来事がすべて夢になって消えてしまいそうだった。忘れてしまいそうで、嫌だった。
——だが、あのタヌキ少女のおかげで一つだけはっきりとしたこともある。
白い鹿に唆されて、この神事(たたかい)に参加したことを、俺は微塵も後悔していない。あのときの選択は、間違っていなかった。これからこの神事(たたかい)でどれだけ傷ついたとしても、ヒーローになりたいというこの熱は、もう消えることがない。もう二度と、この夢を忘れることはない。誰に嗤われても、この想いをもう手放すことはない。きっと、美結も同じだったんだろうな。彼女もまた、本気で勝利を目指している。
ならば、いつの日か俺と彼女が戦うことになるのだろうか?
それは嫌だな。だけど、俺だってもうこの神事(たたかい)を降りるつもりもない。
ヒーローになりたい。この願いのためなら俺は彼女とだって、他の
それに、俺はまだ、自分の中にあるヒーロー像をきちんと言語化できない。俺にとっては、空気を掴むような話なんだ。掴もうとすればするほど指の隙間からすり抜けてしまう。そんな感覚だ。それでも一つだけはっきりとしていることがある。人を殺すのだけは、絶対に違う。それだけは、揺るがない。人として、揺るがすわけにはいかない。越えてはならない一戦だ。どれだけ追い詰められても、それを越えてしまったらもう元の俺には戻れない。俺の中にある理想はそこで終わってしまう。幼馴染と約束した夢は、そんなものじゃない。
だとすれば、俺はこれからどうしていくべきなのだろう?
伏見との約束された決別の日が来るのを座して待つのか。それとも、最後までお互いを信じて助け合えるのだろうか。それとも——
未来のことなんて、俺には何一つ分からない。だけど、これから俺たちは、この馬鹿げた戦いに身を投じている
俺の中に確かにある不形のヒーロー像を守るための、最初の約束。俺だけの理想像を守るために。それに、彼女と協力すれば、この神事(たたかい)を勝ち残れるような気がするんだ。いや、勝ち残るだけではない。彼女といれば、この神事(たたかい)の果てに、ヒーローになるという夢の答えを得ることができる気がする。彼女と共に歩んだ道の先に、きっと俺の求める何かがある。それは、誰かに……神様に保証されたものじゃない。根拠もない。俺にだって、理由は分からない。ただ、そんな予感がしたのだ。遠くで雷が鳴る前には、予兆として静かな胸騒ぎがするように。俺にはヒーローになれるという確かな予感があった。熱が消えない。白い鹿が灯した欲の炎は、もう二度と消えることがない。俺はポケットの中にある勾玉に誓うように、そっと拳を握り締めた。
これは、マンションに帰るための一歩であると同時に、夢を叶えるための第一歩でもある。幼き日に描いた、ヒーローになるという大それた夢。その夢の続きを追うために——俺は、人知れず、誰もいない夜道へと、静かに足を踏み出したのだった。
神々のひまつぶし とじぶた。 @BUTANOTE
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