第四話 鹿を追う者は山を見ず
「気を付けろ! たぶん他にも仲間がいるぞ!」
「ひ、優斗さん?」
管理室を探している途中、伏見がイノシシ男に襲われそうになっているところを偶然にも発見してしまった。なので、取り敢えず、助走をつけてイノシシ男のことを蹴り飛ばしておいた。柔軟性のある筋肉がクッションになり、飛び蹴りの威力が散らされるかと思っていたが、靴裏には、しっかりと身体の芯を捉えた感触がある。
いくら怪物じみた身体能力を有していても、標準的な成人男性よりも体重のある俺が、助走をつけて顔面を蹴り飛ばせば、さすがに少しは効くみたいだな。
イノシシ男は蹴りの威力を受け止めきれず、数メートル先に吹き飛んでいた。
いや、何とか倒れずに踏ん張ることはできているみたいだ。彼は身体を後ろに仰け反らせながらも、辛うじて立っている。イノシシ男の円盤状の鼻が、さらにへこんでしまった気がする。鼻の中心が妙に平らになっていて、見ているこっちが気の毒になった。
「え、仲間ってどういうことですか? 敵は、イノシシ男だけじゃ——」
「いや、イノシシ男だけだと操られている人たちの説明できない。神使の能力ってヤツがどこまで万能なのかは想像はつかないけど、ゾンビみたいに襲いかかってくる奴らがいる。そいつらの目からは生気を感じない。たぶん、あれは……イノシシ男以外の能力で操られているんだと思う。俺もバットで殴られた」
「バットで殴られたって、その割にはケロってしてますね。本当に、大丈夫なんですか?」
「殴られたのが頭だったらヤバかもしれないけど、背中だったからな。問題ない」
「いや、そうじゃなくて怪我はしなかったんですか⁉」
「うん? ああ、動けるからな。大丈夫だ!」
「動けるって……さっきも思いましたけど、それ答えになってませんからね⁉」
伏見が頭を抱えてそう叫んだ。こっちもこっちで、かなりの激戦だったようだ。彼女の姿は、最後に見たときよりも、さらにひどくボロボロになっていた。
純白の白衣は砂埃で汚れ、燃えるような緋色の袴も少し破れている。そこから覗く彼女の白く透き通った肌には、いくつもの小さな傷が刻まれていた。血が滲み、呼吸が荒くなり、足元もふらついている。今も立っているのがやっとの様子だ。なのに——彼女は、思い出したかのように、俺を叱りつけてきた。
「それよりも、なんで戻って来たんですか! 優斗さんも、あの少年と一緒に避難していればよかったのに!」
「ああ、まだ言っていなかったな。入口付近のシャッターが全部閉まっているんだ。つまり、俺たちはキングスクエアから出ることができない。だから、一度、伏見と協力してイノシシ男を倒した方がいいと思ったんだ。……あ、安心してくれ。コウイチ君は無事だぞ? 頼りになる大人たちに任せたし、周辺のゾンビは俺がすべて引き付けてきたからな」
まさかいきなり怒られるとは思っていなかったので、たどたどしい話し方になってしまった。だが、伏見の求めている情報はすべて伝えることはできたはずだ。
「そうですか。……それで、優斗さんが他にも仲間がいると思った根拠はなんですか?」
「伏見ではなく、俺が襲われた。それが答えだ。俺がコウイチ君を連れて避難している人たちと合流した途端、タイミング良く店内放送が流れ、周囲の人たちがゾンビみたいに襲いかかってくるようになったんだ。だぶん、俺のことを人質にしたかったんだと思う。伏見と戦っていたイノシシ男には、俺の居場所は把握できないはずだろ? 監視カメラだ。イノシシ男の仲間が、監視カメラで俺たちの動きを把握しているんだと思う。……それを裏付けるように、管理室にシャッターを開けに向かった人たちは帰って来ていないと聞いた。スマホで誰かに連絡していたことも、これですべて辻褄が合うはずだ」
「……あー、なるほど。敵が二人いたから能力がよくわからなかったんですね。『猛進』と人を操るのは同一の能力じゃなくて、それぞれ独立した能力だったんですか。あー、なるほど、なるほど。ようやく腑に落ちました……」
伏見は右手で口元を隠して、ぶつぶつと何かを呟いている。
特別な能力を持っている彼女の方が、俺よりも感覚として理解できるはずだ。
真剣な顔で何かを考え込んでいる彼女の姿を見ていると、俺は声をかければいいのか分からなかった。俺にも情報を提供して欲しい気持ちはある。だが、まずは彼女がすべての情報を頭で整理し終える方が先だろう。俺は後でもいい。伏見の判断を待つと決めた俺が黙って腕を組むと、イノシシ男が悔しそうに地面を殴りつけた。
「部外者(モブ)が、部外者(モブ)が、部外者(モブ)が! 何度もオレの邪魔ばかりしやがって、いい加減メーワクなんだよ! 目障りなんだよ! つーか、てめぇは誰なんだよ。さっさと消えろよ! この部外者(モブ)野郎!」
「……鹿島優斗だ。ほら、俺は名乗ったぞ? 次はそっちの名前を教えてくれよ?」
「え、えーっと。優斗さん。たぶん、今のはそういう意味ではないと思います……」
呆れたような表情をした伏見が、そんなことを言ってきた。いや、『誰なんだ』と聞かれたから答えただけなのに、そんな顔をされる筋合いはない。
イノシシ男って呼びづらいし、できれば名前を教えて欲しいんだけどな。
俺が呑気にそんなことを考えていると、突然、イノシシ男が怒鳴り声を上げた。
「オマエの、てめぇら、二人の、その態度がこのオレをバカにしてるって言ってるんだよ! このタイミングで自己紹介なんて、どこまで目出度い頭をしてんだぁ! あァ⁉ 頭沸いてるんじゃねぇのか! チッ、クッソが。イタぇ、あー、もういいよ。もういい! まずは、てめぇからだ! てめぇから——」
イノシシ男の怒声を遮るように、無機質な音が響いた。また店内放送が流れたのかと身構えたが、音源はスピーカーではないみたいだ。どこからか流れ出したメロディーは、とても単調で、どこかで聞き覚えのある音だった。それは、よくあるスマホの着信音。
「ぁ、かぁ、神からだ!」
突然、そう言うとイノシシ男は黒いスマホを拾い上げた。俺の飛び蹴りの衝撃で、持っていたスマホを地面に落としていたらしい。どうやらこの音は、店内放送ではなく、ただの着信音だったみたいだ。安心した。……いや、あまり楽観視している場合ではないな。電話の相手は、おそらく管理室にいる仲間からだ。
今すぐ、通話を止めるべきなのは理解している。
だけど、俺は一つの疑問に囚われて動けなくなってしまった。
(イノシシ男は、電話の相手のことを『神』と呼んでいるようだが……これは一体どういうことだ?)
まさか、神さんという苗字の人物が電話の相手ってオチじゃないよな。
俺は伏見が何か知っているんじゃないかと期待して、彼女に問いかけた。
「……なぁ、念の為。一応聞いておくけど、その戦いに参加したら、スマホに神様って人の連絡先が勝手に登録されるとか、そんなオチじゃないよな?」
「生憎ですが、私の電話帳に神という苗字の人は一人もいませんね。私が会ったことがある中で一番印象的だったのは、喋るキツネくらいです」
「あー、そうか。……何だか頭が痛くなる話だな」
二人で軽口を交わし合っていると、イノシシ男の様子がおかしくなってきた。
まず、彼の目の焦点が合わなくなった。
呼吸が浅くなり、額から流れる汗の量も尋常じゃない。
怯えるように、縋るように、黒いスマホを両手で大事そうに抱えていた。イノシシ男のその姿を見ていると、電話の相手との関係がますます分からなくなった。
「ハイ。ハイ。ハイ。いえ、オレが一人でやります。やれます。任せてください。えっ、ぁ、ほ、本当ですか? いえ、疑っているわけじゃ。ハイ。ハイ。ぁ、あ、ありがとうございます! …………フ、フ、ハハハハハ、てめぇらはもう終わりだぞ。神が力を貸してくれるんだ。オレに力を貸してくれるそうだ。オレの神が。ハハハ、フっ、ハハハハ!」
彼が手に持っていたスマホの画面が暗転した。
そう思った瞬間、イノシシ男が狂ったかのように笑い出した。いきなり腹を抱えてこちらを嘲笑してきたのだ。その様子を見て、俺は直感的に呟いた。
「……何だか、嫌な予感がするな」
「はい、それは同感です。ところで優斗さんは、敵の能力で操られてるわけじゃないんですよね? 信用しても……いえ、つまり、優斗さんは……私を助けに来てくれたという認識でいいんですよね?」
伏見の瞳が、まっすぐに俺を射抜いてきた。その視線には、疑念が宿っていた。
俺が敵の能力に操られているんじゃないか——そんな疑いが、彼女の目の奥に潜んでいるのが分かった。だが、それ以上に強く感じたのは、信じたいという意志だった。伏見は迷っている。俺という存在を信じていいか、それとも疑うべきか。その葛藤の中でも、彼女はまだ信じるという選択肢を手放していない。それはスゴイことだ。だからこそ、伏見の問いにすぐに答えられない自分がもどかしかった。
――だって、これから俺は彼女に迷惑をかけてしまうのだから。
「……あー、助けに来たのは確かにそうなんだけど……」
「ん? 歯切れが悪いですね? どうしたんですか?」
「……いや、どうやらこれも言い忘れていたみたいだな。伏見を助けるために来たのはそうなんだけど……同時に、助けられにも来たっていうか……伏見にはあっちをどうにかして欲しくてな。流石に、俺一人だとどうすることもできなくて……」
「え?」
戸惑っている伏見に、俺は黙って彼女の背後を指差した。
すると、敵の能力によって操られている人たちが、うじゃうじゃと現れた。
いや、伏見の背後だけじゃない。俺たちが逃がさないために、全方位を囲むように、音も立てずに奴らは現れたのだ。その動きは、いつ見ても不気味だった。まるで死体が歩き回っているかのような、奇妙な動きだった。
「……な、何ですか、あの数は?」
「さっき言っただろ? 周辺のゾンビをすべて引き連れてきたって。その結果が、あの数だ? ……今見ても、かなりの数だよな」
数える気が失せるほどのゾンビに、俺たちは四方八方を囲まれてしまった。
キングスクエアの入口付近から建物内をぐるりと一周するように全力で走ってきたので、周囲にいたゾンビはすべてここに集まったはずだ。つまり、これ以上ゾンビによる被害は出ることはない。伏見の言うように、これ以上無関係な人たちを戦いに巻き込まずに済む。それが、俺なりに導き出した最善手だった。
「周辺のゾンビって、まさか……優斗さんはキングスクエアの一階にいたゾンビたちを、敵の能力で操れている人たちを、全部ここまで引き連れてきたんですか?」
「ああ、そうだ。だから、伏見と合流するのが遅くなってしまったんだ。でも、安心してくれ。これで、ゾンビによる被害はゼロになるはずだ」
「……」
「伏見?」。
伏見は何も言ってくれなかった。彼女はただ無言のまま、その場に立ち尽くしていた。左の瞼をピクピクと痙攣させ、こめかみをギュッと押さえている。その仕草は、痛々しいというより、限界を超えた人間の静かな怒りを物語っていた。俺が呑気にそんなことを考えていると、彼女の目がゆっくりとこちらに向けられた。
その視線は鋭く、冷たかった。まるで、とんでもないバカを見るような——いや、言葉にするのもためらわれるほど、怒りと呆れが入り混じった目だった。
「バカぁ、なんじゃないんですか‼ 利敵行為も大概にしてくださいよ! どうするんですか、こんなに集めて! 私の能力でも、あんなのどうしようもできませんよ! 見てください! 囲まれてしまいましたよ⁉ どこにも逃げられませんよ⁉ あーあ、もうどうするんですか! 優斗さんに少しでも期待した私がバカでしたよ!」
「す、すまない……」
「……はぁ、もういいです。今さらですが、フラッシュモブってわけじゃないですよね?」
「それならよかったじゃないか。平和的で。アイツからのプロポーズを受け入れてみるか? それですべてハッピーエンドだぞ?」
「勝手に話を進めないでくださいよ。それに、あのイノシシ男がプロポーズしたい相手は私じゃなくて、優斗さんの方かもしれませんよ? 視野を広く持つべきだって、優斗さんが自分で言っていたことですよね? 発言に責任もって、彼からのプロポーズを受け入れてください」
「……色恋なんてよくわからないが。他人(ひと)に迷惑をかける人はタイプじゃないな」
「私もそうですよ。ついでに、一緒にコスプレを楽しんでくれる人だとなおいいですね」
「そうか、趣味が合うというのは長く付き合う上では大切なことだもんな」
「そうですよね。趣味が合うのはいいことです。……まあ、そんなことより、この状況をどう突破するのか考えませんか? ゾンビとショッピングモールの組み合わせは、ポテチとコーラぐらい定番ですけど……いざ追い詰められてみると、たまったもんじゃないですね。絶望です」
「……まったく同意見だよ」
孤軍奮闘。キングスクエアの入口付近からあのゾンビたちから逃げ回っているうちに、イノシシ男に襲われている伏見の姿が見えたからここに来たのではない。管理室に向かっている最中、ゾンビたちを何とかしなければと思って、伏見のことを探していたのだ。
周囲に障害物や遮るものがなにもない一階の開けた場所で、彼女が戦っていたのは予想外だった。だが、彼女の能力だったらゾンビたちをどうにかできるかもしれない。無傷のまま取り押さえることができるかもしれない。そう思って、俺は彼女を探していたのだ。
「……伏見、ゾンビたちの方を任せても大丈夫か?」
「ゾンビって、イノシシ男はどうするつもりですか? いくら私でも、優斗さんを守りながら、同時に対処するのは難しいですよ?」
「いや、守る必要はない。俺がイノシシ男の注意を引き付ける。だから、伏見は俺の周りにゾンビが寄り付かないようにしてくれ」
「なんとかって……ちゃんと見ていましたか? コンクリートを拳で砕くんですよ。私でもきついのに優斗さんだけじゃ——」
「大丈夫! 伏見。俺は、子供の頃……ヒーローになりたかったんだ」
「え、どうしたんですか? というか、何が大丈夫なんですか?」
「さっき、コウイチ君のおかげで思い出せたんだ。子供の頃、俺は誰かを助けるヒーローになりたかったんだ。伏見がこの戦いに参加したのは、夢が欲しいと悩んでいたからだろ? だから、参考になるかは分からないけど、試しに俺の夢を語ってみたんだ」
「えーっと、それは有り難いのですが……なんで、今なんですか?」
「ハハ、決まっているだろ。ここにいるのは、敵の能力で操られているだけの一般人。そして、目の前には凄まじい能力を持っている強敵と、管理室で成り行きを見守っている真の黒幕。そいつらを皆倒して、一般人を無傷で救うことができたらさ。俺は……いや、俺たちは、最高にかっこいいヒーローだって胸を張って言えると思わないか?」
「……絶句しました。あの数のゾンビたちを無傷で、って本気でできると思っているんですか?」
「ああ、できると思っているぞ? 伏見が協力してくれればな」
「……はぁ、そこまで言われたら仕方がありませんね。どうなっても知りませんよ?」
「どうにかするんだよ、俺と伏見で。これは適材適所だ。伏見ならゾンビたちを無傷で押さえることができる。俺はイノシシ男の気を引いて、伏見が倒す隙をつくることができる。ほら、完璧だろ?」
「ちょっとだけ、私の負担が多くないですか? まあ、いいですよ。優斗さんを信じて頑張ってみます。……今だけでいいので、私の相棒になってくださいね!」
一蓮托生。俺は伏見に背後にいるゾンビたちを任せ、イノシシ男と対峙した。
周囲からは、地の底から響くようなゾンビたちの唸り声。真正面には、円盤状の鼻を「フシュー」と鳴らし、今にも突っ込んできそうなイノシシ男の姿があった。
完全にアウェイだ。絶体絶命と呼んでもいい状況のはずだ。
だけど、なぜだか負ける気はしなかった。
背後に感じる伏見の存在が、何よりも頼もしく感じたからだ。だから——
「ああ、まかせろ!」
俺は自信満々にそう告げた。彼女への不信感を切り捨てた今、俺の心には彼女に対する信頼しか残されていなかった。
※ ※ ※ ※ ※
『転んでください!』
伏見の鈴を転がすような声が背後から聞こえてきた。
その声を合図に、俺はイノシシ男との距離を一気に詰めるべく駆け出した。
まさか俺が素直に真正面から向かって来るとは思いもしなかったのか、イノシシ男は驚愕の表情を浮かべている。
さっきまで逃げ回っていた獲物(おれ)が突然牙を剥いたら、誰だって驚くだろう。
——それこそが、俺の狙いだった。
驚いたイノシシ男が、反射的に太い腕を伸ばし、俺を掴もうとしてきた。
掴みかかってくるその動きすら、すべてが俺の予想通りだ。だから、イノシシ男の腕が届く前に、俺は身体の軸をずらし、引き寄せるようにして払いのけた。
太い腕を叩き落とすように前方に誘導したことで、彼の重心が見事に前へ傾いた。
人体の構造上、重心が前方に偏った瞬間に衝撃を加えられると、倒れてしまう。
これは骨格の仕組みを利用した技術であり、どれだけ筋肉を鍛えていようとも関係ない。
むしろ、彼のように筋肉が多い人間ほど、一度崩れた重心を立て直すのに苦労する。時間を稼ぐには、イノシシ男を転ばせるのが最適解のはずだった。だが——
「な、舐めんなや!」
「っぶね!」
俺は直感的に危険を察知した。
イノシシ男は地面に膝を滑り込ませ、転倒を防いだ。そして、そのまま振り返りざまに裏拳を叩きこんでくる。格闘技はかなり真面目に取り組んでいたようだ。
転倒対策が完全に身体に染みついているのだろう。
右腕ごと、俺の身体を横方向に薙ぎ払おうとしている。豪快な腕の一撃。
もし命中すれば、一発で意識を失ってしまうどころか、命を落とす可能性すらある。その拳を躱すため、俺は後方へ半歩踏み込んだ。
「……っ」
眼前に拳が迫る。風を切る音が耳を打った。
ギリギリで裏拳を回避したことをこの目で確認した直後、俺は腰を入れて蹴りを放った。
捕まれないように、引き戻すことを意識した素早い蹴りだ。
速いだけが取り柄の蹴り。だから、威力はそれほどない。
俺は、イノシシ男の鋭利で湾曲した牙で右足を傷つけないように、細心の注意を払いながら、彼の顎をかち上げた。これで脳を揺らす。
——だが、これ以上の追撃はしない。
俺がしているのは、ゲームで例えるならスペランカーだ。
この世で最も貧弱な主人公を操作する、あのアクションゲーム。
イノシシ男にもし殴られたら、もし蹴られたら、もし掴まれたら……そのすべての選択肢が死に直結している。
些細な操作ミスで、俺の身体は簡単に壊されてしまうだろう。
一つのミスが致命傷に繋がるはずなのに、あちらはどれだけミスをしても構わない。
死にゲーのはずが、死んでやり直すこともできない。
そんな縛りプレイを、俺は強要されている。
言葉を選ばずに、はっきりと言ってしまえば——これはもう、ほとんどクソゲーだ。
「優斗さん、ここはゾンビの量が多すぎます! 三階に移動しましょう!」
どうしようかと迷っていると、背後から伏見の張り上げた声が聞こえた。
彼女の方に視線を向けると、非常階段の方向を指さしていた。
薄暗い建物内では、緑色の輝く非常階段のマークが一際目立っていた。
俺は、イノシシ男が態勢を整える前に、伏見が指さす階段を目指して走り出した。
「優斗さんって、とっても強かったんですね! 正直驚きました!」
「ああ、自分が一番驚いている。身体についていた錆が落ちていくような感覚だ。……で、どうする? 伏見は何かイノシシ男を倒す算段があるのか?」
「……私の能力は彼には無効にされてしまうので、完璧に不意打ちを決めるしかありません。優斗さんには申し訳ないのですが、できればさっきみたいな感じで、もう一度彼の隙を作ってくれませんか?」
「ずいぶんと難しいことを、簡単に言ってくれるな……」
階段を駆け上がりながら、俺たちは言葉を交わす。
そのまま三階に到着し、俺がゆっくりと重たい扉を開けると——
「『止まりなさい!』」
扉の前に潜んでいたゾンビたちが、伏見の能力によって動きを止められた。ゾンビの一体は、ゴルフクラブを俺の頭に振り下ろす寸前だった。危なかった。彼女がいなければ、間違いなく俺は大怪我を負っていただろう。
「おー、よく気が付いたな。まったく人の気配なんてなかったぞ?」
「私の耳を見てくださいよ。ちょっと特別なことを忘れたんですか?」
「聴覚も鋭くなるのか。そのケモミミはただのお飾りってわけじゃないんだな。……それよりも、イノシシ男に夢中になって黒幕の存在をすっかり忘れていたな」
「はい、私も失念していました。監視カメラで私たちの動きはすべてお見通しですもんね。先にそっちをどうにかしなければいけませんね。……ところで、優斗さん。その管理室ってどこにあるんですか?」
「え、分からないぞ?」
「何でですか! 探してたんじゃないんですか?」
「いや、すまない。確かに探してはいたんだけど……大量のゾンビに追いかけられて、それどころじゃなかったんだ」
「……っ、そうですよね。贅沢は言いません。管理室の場所なんて、イノシシ男を倒した後でじっくりと探せばいいだけですからね!」
俺たちは、今ある情報を摺り合わせながら、やるべきことの優先順位を確定する。
まずは、管理室に行く前に、あのイノシシ男をどうにかしないといけない。
「てめぇら、よくもやってくれたな!」
「……マジかよ?」
「やっぱりそうですよね。階段なんて使わなくても、よじ登ってこれますよね」
イノシシ男は、人並外れた身体能力を存分に発揮して三階まで上がってきた。
壁や地形を巧みに利用し、パルクールの要領で俺たちの前に現れた。凄まじい執念だ。そして、そのままスイカほどに膨れ上がった巨大な拳が、俺を狙って放たれる。だけど。
「『燃えてください!』」
油断大敵。ゾンビの対処が不要な、見晴らしのいいフードコートにいるなら、イノシシ男は俺だけではなく、伏見のことも同時に警戒しなければならない。二対一だ。
伏見の能力によって、どこからともなく現れた炎がイノシシ男を喰い殺すみたいに彼の身体を飲み込んだ。燃え移った炎は、勢いを弱めることなく彼の全身を包み込んでいく。
「しゃらくせぇ!」
だが、弱まることを知らなかったはずの伏見の炎は、彼の指先が触れただけで桜の花びらのように散ってしまった。大きな手を一振りしただけで、触れた部分から光の粒子に変って消えてしまったのだ。
「伏見!」
「大丈夫です。優斗さん、わかっていますよ。『燃えてください!』」
「しゃらくせぇって、聞こえなかったのか‼ 何回やっても結果は同じ——」
「『燃えてくださいッ!』」
「う、ぜェゾ! ゴラッ!」
伏見が三連続で発生させた炎が、壁のように立ち上がり、俺たちの姿が遮られた。こちらからもイノシシ男の姿が見えないが、それでよかった。これで——
「逃げるな!」
「逃げてないぞ?」
「あっ⁉」
俺は疾走した。燃え盛る真っ赤な炎の中にいるイノシシ男を攻めるために、炎の壁を突き抜けた。伏見の能力は、実際の肉体には何の影響も与えない。
炎はただの幻だ。ただのイメージなのだ。火傷しないと理解していれば、突っ込むことも怖くはない。
それに、俺は伏見のことを信じている。全幅の信頼を寄せているのだ。踏み込んだ左足は燃えていない。確かに熱気を感じるが、それだけだ。だから俺は、燃え盛る炎の中であっても、イノシシ男と戦闘を続けることができたのだ。奇襲は成功したようだ。
「っせい!」
掛け声と共に、俺はイノシシ男の筋肉の鎧に覆われた急所——鳩尾のさらに奥を打ち込んだ。イノシシ男の表情が苦痛に歪み、両膝が震える。
人間の弱点は複数個所存在している。ダメージが蓄積しやすく、相手を効率よく倒すために重要な部位だ。現代の格闘技はスポーツや興行としての発展している面があるため、急所を狙うことはルールで禁止されている場合も多い。
記憶が確かなら、空手の試合では防具を着用することを義務付けられていたし、剣道の試合では突き技が禁止だったはずだ。文句はない。それは選手同士の安全を守るためには必要な措置だと思う。だから、俺はその逆のことをすればいい。逆のこと。つまり、正確にイノシシ男の急所を突けばいい。そのうちの一つ、鳩尾はトレーニングで鍛えることが出来ない場所だ。俺はそこを狙い撃ちして、全力で拳を捻じ込んだ。
だが、拳に伝わってきたのは、ゴムのような感触だった。
彼の腹筋を綺麗に貫いたはずなのに、まるでタイヤでも叩いたような手応え。
硬く、弾力があり、そして異様なまでに沈まない。
一撃必殺の部位だと思っていたが、そう簡単にはいかないらしい。
今、彼が顔を顰めているのは、痛みのせいではない。
彼がダメージを負ったように見えたのは、過去のトラウマでも思い出しただけだろう。
格闘技を真剣に取り組んでいた人間なら共感できる話だと思うが、あまりに綺麗に急所に一発もらうと、衝撃や痛みよりも先に、驚きの感情が込み上げてくる。
彼もそれだ。茫然自失としているだけで、実際にはダメージはほとんどないはずだ。
その証拠に、意識が戻ったイノシシ男は両拳を強く握りしめる。
目をギュッと閉じ、ゆっくりと振り上げた拳を一気に振り下ろしてきた。
——だが、俺の目には彼の動きがすべてスローモーションに見えた。
気が付けば、俺の身体は抜き身の刀のように研ぎ澄まされていた。
脳が発した電気信号を、コンマ数秒の誤差もなく指先まで送ることができる。
彼の攻撃が当たることはないと断言できるほど、今の俺は調子が良い。
五体満足の恵まれた身体を、自分の意志で完全に支配できている。
骨格の動き、筋肉の収縮、内臓の働き、血液の流れ、呼吸のリズム、汗の臭い——相手の次の動作が手に取るように理解できる。そして、イノシシ男の動きを止めるために放った俺の打撃の数々は、まるで吸いつくかのように正確に当たった。
「優斗さん、ゾンビたちが集まってきました!」
「もう移動するか?」
「……いえ、一階と比べるとまだまだ余裕があります。優斗さんは大丈夫ですか?」
「そうか、こっちもまだ大丈夫だ。伏見はそのままゾンビに集中してくれ」
俺たちの会話に不快感を覚えたのか、イノシシ男が口を塞ごうと再び手を伸ばしてきたが。だが、俺は一瞬の滞りもなく足刀蹴りを放ち、彼の喉仏に直撃させた。
簡単には踏み込んでやらない。イノシシ男の巨体が動きづらいように、近すぎず遠すぎない、この絶妙な距離感を保ちながら、俺は戦闘を継続しなければならない。
インファイトに持ち込まれたら、勝ち目が消える。
だから、戦いの主導権は常にこちらが握り続けなければならない。
「……牙が邪魔だな」
そう思いながら、俺はイノシシ男の気を引くために攻撃を続ける。
拳を、蹴りを、肘を——イノシシ男へ丁寧に浴びせ続ける。容赦なく、急所を狙う。緻密さを必要とする作業だ。ダメージを与えられていないのなら、せめてイノシシ男を転ばせて、起き上がるまでの時間を稼ぎたい。
「いい加減に、しろやッ!」
俺がそんなことを考えていると、イノシシ男は叫んだ。
怒りを含んだ、鈍くて低い声だ。獣が唸るような声だった。
蚊が止まるような威力の攻撃の嵐に、彼のはらわたが煮えくり返っているのだろう。
「鹿島優斗……」
鼻息を荒くしながら、重々しい声音で俺の名前を口にした。
追撃はしなくとも攻撃を止めるのは悪手だ。頭では冷静に判断できているが、直感的に、感覚的に、今のイノシシ男に近寄ったら、一瞬で殺されると思ったのだ。
「……」
「……」
静寂に包まれた。互いに相手の様子を伺い、出方を探っている。
イノシシ男は、蹄の音をコツコツと挑発的に踏み鳴らしているが、気にならない。
そこでようやく俺の方から動かないと察したようだ。彼は突然、屈強な身体が弾丸のように丸めだした。全身の獣毛を逆立て、湾曲した鋭い牙をカッカッと鳴らしている。
まるで銃口を向けられたかのような威圧感だった。
戦意を喪失させるほどの圧迫感がある。
殺人現場にいるかのような緊迫感が、両肩に重くのしかかる。
全身から滝のように汗が流れ、意識していなければ呼吸も乱れていたことだろう。
それほどまでに、イノシシ男の雰囲気が一変していた。彼の黒い瞳から滲み出る殺気のような圧のせいで、俺は身動きが取れなくなった。警戒せざる得ない状況だった。
主導権を完全にイノシシ男に握られてしまった。嫌な予感がする。
不用意に近寄ることはできない。今、近づけば、たぶん殺される。そう思わされるだけの何かが、今の彼にはあった。俺に残された選択肢はイノシシ男の動きに合わせてカウンターを決めることだけだ。それしかない。まず、彼の突進を右に避ける。その流れで蹴りを入れる。彼の機動力を少しでも奪ってみせる。俺がそう考えた次の瞬間。
「フッ!」
イノシシ男の足元から、黒い亀裂が蜘蛛の巣のように広がった。
両目をギュッと瞑り、ただ我武者羅に、俺に向かって真っ直ぐ突進してくるイノシシ男の姿が見えた。肩を怒らせ、頭を低く構え、まるで本物の獣のように地を蹴ってくる。前に。ひたすら前に。その巨体が床を踏み鳴らすたびに、地面がわずかに震えた。
警戒していたのだが、正直、拍子抜けだった。
工夫は何もない。注意深さの欠片もない。
赤子が駄々をこねるかのような、幼稚な一撃だった。
そして、さっきまでの俺なら確実に躱せる一撃だった。
難なく、躱せる一撃だったはずだったのに——
(……し、しまッ‼)
イノシシ男の表情が、まるで迷子になった少年のように怯えていていた。
その事実に気を取られてしまった。『なぜ?』という邪魔な思考が、頭をよぎってしまったのだ。命の取り合いをしている最中では、それはただのノイズに過ぎない。
そして、それが初めて——俺の致命的な隙となった。
「ッグぃ……」
衝撃に備えようと、身体を反射的に縮めた。
肋骨ごと内臓を押し潰す一撃が、肺の中を満たしていた空気をすべて押し出す。
肺から逆流してきた空気の塊が口に押し寄せ、まるで車に轢き潰されたカエルのように醜く、無様な声が喉の奥から漏れ出した。
せめて受け身を取ろうとしたが、抵抗虚しく、俺の身体は止まってくれない。
回転する。回転する。風車のように、ぐるぐると回転し続ける。
身体のバランスを保つための平衡感覚がおかしくなっている。
もう、上下左右が分からない。イノシシ男の突進によって制御不能になった俺の身体は地面と擦れているはずなのに、止まってくれない。もう何度も背中を打ちつけているのに、それでも止まってくれない。全身に受けた衝撃が、俺の意識を混濁させてくる。
「ッ……ヴっ、……ッ…‼」
「優斗さん!」
どちらかの声が合図となったようだ。声が聞こえた瞬間、俺の体は壁に衝突した。鈍い音と共に、視界が一瞬だけ真っ白に弾けた。どうやら俺は、キングスクエアの通路——その反対側まで吹き飛ばされてしまったらしい。距離の感覚もいまいち分かっていない。
「……ッ、くっそ……」
立ち上がろうと右足に力を込める。だが、体重を支えきれず、再び尻餅をついた。
地面の冷たさが、頬にじんわりと染み込んでくる。
何故だろうと疑問の正体を探るため、視線を下げて自分の身体を見る。
すると、答えはすぐに見つかった。疑問はすぐに解消した。
イノシシ男の牙が突き刺さったのか、腹部に小さな穴が開いていたからだ。
そこから真っ赤な血が止まることなく流れ出している。
満身創痍。もう、傷がない部位を見つける方が難しいだろう。
それほどまでに、俺の身体はボロボロだった。
温かい血が肌を伝い、むせかえるような鉄の臭いが鼻を突く。全身から力が抜けていく。
生命活動が、静かに止まりかけていた。俺は、腹から噴き出す鮮血を眺めながら。生ぬるくなった血溜まりの上で、ただ横たわっていた。
「優斗さん、大丈夫ですか⁉ 優斗さん、優斗さん!」
遠くから伏見の声が聞こえた気がした。
鈴の音も聞こえる。恐らく、すぐ近くにいるのだろう。
彼女に心配をかけないように、再び立ち上がろうとしたが、前方に倒れ込んでしまう。
腹這い状態のまま、首から上だけを動かして、ゆっくりと顔を上げる。
状況が分からない。ただ、俺に分かることは一つだけだ。
——たった一撃で、勝敗が決まった。
それだけが俺に理解できる範囲の出来事だった。理不尽だ。
何発も何発もイノシシ男に叩きこんだ俺の拳は無意味に終わり、彼の無鉄砲な一撃が、俺の命を瀕死にまで追い詰めている。もう一度言うが、理不尽だ。
いや、これも俺が調子に乗っていたから、こうなったのだろう。
何でもできると自分の力を過信した結果が、この様だ。
力もないのに、ヒーローになりたいと願った。その大望の果てが、これだ。
手足が思うように動かず、視界も歪んでいる。
瞼が次第に重くなり、意識が、命が、重力に持っていかれそうだ。
「……っ、な……んだ?」
突然、どこからか「邪魔だ」と、侮蔑が混じった男の声が脳内に響いた。いや、これは幻聴かもしれない。でも、どこかで聞いた覚えもある声な気がする。
だが、何も思い出せない。何も——
頭が回らない。何も考えられない。
だから、俺は重力に従うように、そっと目を閉じた。
自分の無力感を噛みしめながら、静かに目を閉じる。
だけど最後に、偶然、ズボンのポケットから零れ落ちた勾玉が、淡く優しい光を放っていた気がした。
※ ※ ※ ※ ※
ヒーローになりたい。
こんな夢を抱いたのはアニメの影響か、警察官である父の影響だったのか、もう俺自身すら覚えていない。だけど、みんなの窮地に必ず現れて、苦境に立たされた人たちをあっという間に救ってしまう。そして、その背には幸せそうな笑顔だけが残る。
そんなヒーローになりたいと、子供ながらに本気で思っていた。
そうだ、俺は、みんなを助ける正義の味方になりたいと、心の底から願っていたんだ。
クラスメイトには嗤われ、『幼稚だ』と馬鹿にされたことは何度もあった。
だが、それでも、あの頃の俺は全てを救えるヒーローになれるという自分の夢を、可能性を、信じて疑わなかった。
なのに。どうして、こんな大事なことを忘れていたんだろう?
いや、忘れるはずがない。忘れていいわけがなかった。
だってこれは、俺という人間の原点であると同時に、空洞(からっぽ)な俺のすべてだったはずのに。
どれだけ否定されても、誰にも応援されたことはなかったが……いや、そういえばただ一人。いや、両親を含めると三人か。両親以外にもただ一人、俺のことを「ヒーローになれる」と信じて、応援してくれた幼馴染の少女がいた。
とても仲は良かったはずだけど、彼女が引っ越してからは疎遠となってしまった。
あれ以来、一度も会えていない。懐かしいな。もう彼女の名前も忘れてしまった。でも、俺はその娘(こ)に貰った勾玉に、誓ったんだ。ヒーローになるって。
——俺はかっこいいよくて強い、そんなヒーローになりたかったんだ。
※ ※ ※ ※ ※
「何処だ、ここ?」
気が付くと、俺は真っ白な世界で立ち尽くしていた。
何の前触れもなく、まるで夢を見ているかのような感覚だった。
身体に怪我はない。疲労もない。何も感じない。
さっきまでの出来事こそが夢だったのではないかと思えるほど、現実感が希釈だった。
俺は周囲を観察しようと顔を動かしてみたが、何もない。
この真っ白の世界はどこまでも続いて、終わりが見えない。
空も地面も、境界線すら存在しない。
まるでこの世界そのものが、俺に定義されるのを拒んでいるかのようだった。
足元に目を向けても、地面があるのかどうかすら判然としない。
地面を踏みしめている感覚はあるのに、何かに触れている実感がない。空中に漂っているかのような、水の上に立っているかのような、そんな違和感がある。
俺という人間の存在が、この空間に溶けてなくなっていくような感覚だ。
輪郭が曖昧になり、思考すらも霧の中に沈んでいく。
……もしかして俺は、あのまま死んでしまったのだろうか?
そんな疑問が頭をよぎる。だが、この何もない空この間は、天国にしては味気なく、地獄にしては風刺が効いている。そして、俺はこれまでの人生で地獄に落ちるようなことをしたことがない。思考が堂々巡りを始めたその時、突然——
『再び問う。汝、自らの願いのためにこの戦いに参戦するか?』
声がした。老人のように曇った声が、背後から静かに響いてきた。
その声は、この空間に波紋のような揺らぎを生み出し、白一色だった世界に微かな変化をもたらした。
俺はゆっくりと背後へ振り向くと、そこには、白い鹿がいた。
その姿は神秘的で、現実離れしている。毛並みは新雪のように純白で、まるで光を纏っているかのように輝いている。白い鹿はこの真っ白な世界と同化しているはずなのに、目を逸らせない。確かな存在感がある。赤い瞳は、ガラス玉のように澄んでいて、俺の心の奥底まで見透かしてくるようだった。だから——
「……あんたが、イノシシ男が言っていた神様なのか?」
『否、我らは神に非ず。我らは神の使いである』
「あー、伏見の言っていた神使ってやつか……」
俺の問いに、白い鹿は静かに首を横に振った。
その仕草は、言葉以上の重みを持っていた。まるで何千年も生きている大樹が語りかけてくるような、厳かで揺るぎがない雰囲気がある。
「……なぁ、すまない。少しだけ時間をくれないか?」
『……』
この状況を理解するには、あまりにも時間が足りなかった。
そして何よりも、俺自身の覚悟がまだ定まっていない。
白い鹿は何も言わず、ただその赤い瞳で俺のことを見つめ続けていた。
その沈黙を、俺は肯定の意だと受け取り、伏見の言動を振り返りながら、胸にあった疑問を少しでも解消するために、再び口を開いた。
「……自らの願いのためにって、神様っていうのは人間の願いを無条件に叶えてくれる存在じゃないのか? 俺は毎年、近くの神社で、賽銭箱に五円玉を投げ入れて、『家族全員が健康で過ごせますように』って願い事をしていたんだけど」
『否だ。断じて否だ。神が人に施すのではない。人が神に捧げるのだ』
「そうか、そういうものなのか……」
『思い上がるなよ、人間。神の望みを叶えるは、汝らの使命なのだ』
「……神の望み?」
『神事(まつり)だ。それは神々の戯れにして、汝らの試練。八百万の神々が退屈を嘆かれた。我らはその嘆きに応えるため、汝らに我らに能力(ちから)の一端を与え、欲を灯し、身命を賭して競わせることとした。勝者にはそれ相応の褒美が与えられよう。だが、敗者となれば、大切なものを一つ失う。それがこの神事に参加する条件だ』
「ああ、暇つぶしって……あれって本当だったんだな。アンタたちも大変だな。神様のご機嫌撮りに、ここまで振り回されるなんてさ……」
『……』
白い鹿の答えを聞いて、驚きよりも納得の方が先にきた。そういえば、修学旅行のときに訪れた神社でこんなことを聞いたことがある。神社とは神様に願いを届けるのではなく、自分自身と向き合うことで、覚悟を明確にする場所だと。『合格しますように』ではなく『合格のために努力をします。だから、見守っていてください』。同じように『商売繁盛しますように』ではなく『誠実に商いを続けます。だから、ご加護をお願いします』といった感じだ。その行為を、祈願というらしい。あのときは、ただの豆知識だと思って聞き流してしまった。だが今、白い鹿の言い分を聞いて、あの説明の意味がようやく心に落ちてきた気がする。ただの知識が、知見へと昇華した。
それに、これで伏見の言っていたことがすべて本当のことだったと、裏も取れた。
神使たちは神のために人間に力を与え、競い合わせたい。神はそれを眺めて楽しみ、勝ち残った人間には褒美として願いを叶える。そういう仕組みか。三者に利益(とく)がある。
人間は特別な力を与えられ、夢や願いを叶える可能性を得る。神使は自らの役目を果たすことができる。そして、神々は人間を駒とした新たな娯楽を手に入れる。伏見はバトルロイヤルと言っていたが、もっと俗物的なんだな。まるで競馬だ。
走る理由はそれぞれ違うが、走らされていることには変わりない。
彼らは、願いを叶えるという人参をぶら下げれば、人間が簡単に争い合うと思っているのだろう。人間の欲望を煽り、競わせ、選別する。その考えが、どうにも気に食わない。そして、実際にその通りになっているのだから、笑えない。
「なぁ、能力って具体的にはどんなものをくれるんだよ? できれば、それを先に知っておきたいんだけど」
『……知らん』
「いや、知らんって。アンタが俺に『我らの能力を与える』と言ったんだろ? さっき自分で言ったことすら忘れたのか?」
白い鹿は、静かにそう答えた。
その反応に、俺は思わず声を荒げそうになったが、ぐっと堪えた。
この空間では俺の中の感情がすべて吸い込まれてしまいそうだったからだ。
芽生えたばかりのこの感情さえも、この世界と同じように真っ白に塗り潰されていきそうで。それが、どうしようもなく嫌だった。
言葉を飲み込んだ俺のその姿を見て、白い鹿はまた静かに首を振った。
その動きはゆるやかで、まるで風に揺れる枝葉のようだった。どこか呆れたような雰囲気を漂わせながら、白い鹿は低く、静かに言葉を紡ぐ。
『我らが人間に与える能力とは、汝の成したことで変化する。すなわち汝の過去、後悔、願い——それら、汝の心理によって決まる。よって、我らはまだ知らぬ。汝の能力とは、汝の心の本質であると知れ。……我らはただ、それに名を付けるだけにすぎん』
「……名を付ける?」
『然り。名前には魂が宿る。人間の名は、その存在や本質と密接に深く結びついている。名を付けるとは、汝の魂に直接語りかけること。……謂わば、鍵のようなものである。人間の魂に我らが新たに名を与えることで、我らの魂と深く繋がり、汝は能力を引き出すことができる。……汝のこれまでの歩みを、我らが”能力”に落とし込むのだ』
「へぇ、そういう理屈なのか。魂が繋がるって……俺はアンタと一心同体になるってことなのか? 正直、俺にはまだ良く分からないところがあるけど。……過去に、後悔に、願いって……まるで、俺のすべてを見ていたかのような言い草だよな? 神様っていうのは、俺みたいな普通の人間をずっと観察していられるほど暇なのか?」
『……侮るなよ。自然界のあらゆるものに神が宿っている。山、川、風、火、そして、人の心にもな。神は常に汝らの身近に存在し、共にある。我らは汝らの心の中に在る神から言葉をいただき、汝の能力に名を与える。……さあ、汝の手の内を見よ』
白い鹿に促され、俺は自分の右手に視線を落とす。
何もなかったはずの拳が、淡く優しい光を放っていた。
その光は、まるで水面に差し込む月光のように揺らめきながら、手の中でゆっくりと形を変えている。最初はただの光だった。だが、次第にその輪郭は曖昧なまま、何かを形作り始めている。まるで意志を持っているかのように、光は躍動し、鼓動し、俺の拳の中で生き物のように暴れていた。俺の心臓の鼓動と、光のリズムが重なっていくような錯覚に陥る。俺の心の、もっと深い——言葉にできない部分が確かに反応している。この光は、俺の中の何かと呼応している。それだけは、はっきりと分かった。
だから俺は、意を決して拳を開いた。震える指先に力を込めて、硬く握っていた拳をゆっくりと開いた。この光が何を意味するのかを知りたいという衝動が、不快感を遥かに上回っていたからだ。すると、そこには——
「これは、俺の勾玉か?」
拳の上に乗っていたのは、見覚えのある勾玉だった。
淡い緑色の勾玉だ。ちょうど掌に収まるサイズで、胎児のような形をしていた。
触ってみると表面はツルツルと滑らかで、真中に小さな穴が一つ空いている。
それは、間違いなく俺がいつも持ち歩いていたはずの勾玉だった。
『否。それは神器である』
俺が不思議に思っていると、白い鹿が語り始めた。
『その勾玉は、汝のすべてが宿る器。能力を引き出す鍵である。……それを身に着けていなければ、我らの魂に近づき、我らの能力を行使することはできぬ。それは、この神事の参加資格である。ある一定の期日まで、その神具を肌身離さず持っていろ』
「……参加資格か」
『然り。その勾玉は、汝の最も大切な道具なり。思い出や感情が宿る存在。そして、汝の心の中に在る神を迎え入れる器として、最も相応しい存在である』
「……勝者にはそれ相応の報酬が与えられ、敗者となれば大切なものを一つ失う、だったよな。つまり、もし俺がこの戦いに負ければ……俺はこの勾玉を失うってことでいいのか? むしろ、それだけで済むのか?」
『然り。だが、心して聞け。汝の心の中に在る神が……今は、その勾玉に宿っておられる。その勾玉が破壊され、汝の心の中に在る神が戻れば良い。だが、神具より先に、汝の魂の器——すなわち肉体が滅びれば、魂は無となり消滅する。現世では、汝が生きてきた痕跡を何一つ記憶も残せず、ただ完全に消滅する。その魂は死ぬことも許されない。これは、汝の心の中に在る神が神器に移りし影響だ。受け入れよ』
「……受け入れよって」
どこまでも傲慢で、上から目線な物言いだった。
だが、何故だろう。それでも構わないと思えてしまうのは。
伏見が『だって、私はこの戦いに参加したことを、微塵も後悔してないんですから』と言っていた気持ちが、今なら少しだけ理解できてしまう。俺はヒーローになると誓った勾玉をギュッと、握り締める。もう顔も名前も思い出せないが、記憶の中にいる幼馴染の少女が俺の背中をそっと押してくれた気がした。だから俺は、心の奥底まで見透かしてくる赤い瞳を真正面から見つめ返した。
「……なら、これが最後の質問だ。たぶん、これで俺は決めることができる。この戦いに参戦するかを。アンタの答えを聞いたら、決めることができる気がするんだ。……願いを叶えるっていうのは、どのくらいのことが可能なんだ? もし俺が、アンタの言う通り、この馬鹿げた戦いに参戦すれば、伏見を助けることができるのか? ……俺は、本当にヒーローになれるのか?」
『然り。もし汝が、この戦いに最後まで勝ち上がることができれば、その願いは叶うだろう。……汝が勝ち残ることができればだがな』
「……ッ」
俺は一歩、白い鹿がいる方向へ踏み込んだ。
その瞬間、この真っ白な世界にさらに波紋が広がった。
俺と白い鹿。両者が生み出した波紋が激しく衝突し、重なり合う。
胸の中心から、熱い何かが込み上げてきた。
不定形の熱だ。まだ形が定まっていない、泥土のような熱だ。
ドロドロに溶けた熱の塊が、心臓から血液に混ざり、じんわりと広がっていく。
——これは欲望だ。この熱の正体は、俺の欲望だった。願いを叶えたいという欲望だ。皆を助けるヒーローになりたいという、俺の切なる欲望(ねがい)だった。
白い鹿はこおろこおろと俺の欲望(ねがい)をかき鳴らす。その声は静かでありながら、確かに俺の心を震わせる。泥土のような熱に、俺のヒーローになりたいという欲望に、明確な形を与えてくる。だから——
『三度問う。過去を忘却せし者。残酷なまでに武の才に愛された者。そして、己が正義の在り方に執着する者よ。汝は、自らの願いのためにこの戦いに参戦するか?』
白い鹿のその問いは、まるで何かの儀式のようだった。
その赤い瞳の奥に、わずかに揺れる光が見えた。
白い鹿の瞳を見て、俺は悟った。
これは、俺に選択を委ねるものではない。
これは、俺に本当にこの戦いに身を投じる覚悟があるかどうかを試すものだ。
白い鹿によって暴かれた、俺の奥底に潜んでいた欲望。
その衝動に突き動かされるまま、俺は白い鹿に向かって手を伸ばし、叫んだ。
「ああ、俺は、この馬鹿げた戦いに参戦することにしたっ!」
俺はそう決意を宣言して、白い鹿の頭に触れた。
白い鹿の頭に触れた俺の右手に、ピリピリとした痺れが走った。
指先から腕、そして肩へと、感覚がじわじわと消えていく。目の前にいる白い鹿に、俺の存在そのものが取り込まれ、一つに溶け合っていくかのようだった。
全身に広がったはずの欲望という名の熱も、勾玉の鼓動と共鳴するように収縮し、右の掌から腕を伝って、心臓へと戻っていく。心臓が一拍、強く脈打った。
その瞬間、白い鹿にある何かが俺の中に流れ込んできたのが分かった。それは言葉だけでは説明できない不思議な感覚だった。重く、深く、静かで、しかし確実に——俺の中にあったはずの『何か』を無理やり塗り替えていくような力の源。それが今、白い鹿によって、俺の中に注ぎ込まれた。名前も、形も分からない。ただ、それは確かに俺の中にだけ存在している。俺の中で、静かに『何か』が始まろうとしている。
『……フフッ、ハハハッ』
戸惑っている俺をよそに、白い鹿は愉快そうに笑った。
その笑い声は、どこか人間的で、どこか神秘的だった。
俺の決意を歓迎しているのか、それとも試しているのか。その真意は分からない。それを確かめるよりも早く、真っ白なこの世界が唐突に終わりを迎えようとしていたからだ。
「な、何だ?」
突如として、大気が軋むような音が響いた。
この世界そのものが悲鳴を上げているかのような、不穏な音だった。
視界の端に、細く鋭い亀裂が走る。
真っ白な世界に黒い線がゆっくりと広がっていく。
それは、完璧だったはずのこの空間に、初めて傷がついた瞬間だった。
地面はガラスのように罅割れ、一欠けらずつ崩れ落ちている。
この世界そのものが、崩壊していく。
それでも、白い鹿は静かに佇んでいたままだった。
まるで、これが避けられない運命だと受け入れているかのように。その姿は、崩れゆく世界の中でも決して揺るがず、厳かな雰囲気を漂わせていた。やがて、もう十分に笑い終えたのか、白い鹿はゆっくり口を開いた。
『我が祭神は——武神・建(たけ)御雷神(みかづちのかみ)。かつて、国譲りの使者として出雲に赴き、剣を逆さに突き立ててその上に座し、言葉ではなくその威風で国を譲らせた雷の神。戦いと雷を司るその神威を示すため、神使である我が、この地で最も武才に秀でた汝を選んだのだ。此度の神事は、祭神の神威を示す絶好の機会である。ただ存分にその力を振るい、勝ち残れ。武神の名の下、負けることは赦されぬ。……なればこそ、汝のこれからの武勇に期待し、汝の能力にこの名を与えよう。『鹿鳴(ろくめい)』と』
「……鹿鳴」
白い鹿の言葉を繰り返すようにそう呟くと、いきなり膨大な情報が堰を切ったかのように脳内に溢れ出してきた。それらは知識でも記憶でもなかった。もっと根源的な、力の構造そのものを脳に直接刻み込まれているかのような不快感がある。
身体が内側から改造されていくかのような、未知の体験。
筋肉の繊維が千切れ、血流が加速し、骨の奥にまで衝撃が走る。
魂が引っ張られ、何者かに書き換えられていく。
白い鹿から流れ込んできた『何か』が俺の心や魂だけではなく、身体の表面が——魂の器が新たに作り直されていく。違和感だらけだ。俺が俺じゃなくなってしまう。まるで人間ではない別の生物に生まれ変わっているかのような感覚。『何か』の手によって、俺は人間という種族の垣根を超えた進化を、勝手に促されている。
混じる。混じる。獣と人間の魂が混じっている。
俺の魂が悲鳴を上げていた。人間の尊厳を踏みにじられるかのようなその行為を、許容できないと泣き叫んでいた。俺の中で魂が、暴れ回り、駄々をこねて、必死に抵抗しているのがはっきりと分かった。そのせいで、ムカムカとした吐き気が込み上げてくる。
だが、俺の魂の反発を、抵抗を、拒絶を、絶叫を——獣の咆哮がすべてを掻き消してしまった。抵抗むなしく、あまりにあっけなく、吹き飛ばされた。
その結果、俺の胸の内に残されたのは、圧倒的な万能感だけだった。
俺はしばらくの間、神の力の源流に翻弄されていた。だが、やがてその違和感もなくなり、もともと俺の身体に備わっていた力のように、自然と馴染んでいく。
能力の使い方が、本能で理解できる。
蜘蛛が誰に教わるでもなく糸で巣を張れるように。雛が親鳥の影を見ただけで自然と口を開けて餌を待つかのように。小魚が群れで泳ぐことで外敵を避ける術を最初から知っているかのように。俺は自らの遺伝子に刻み込まれた新たな情報を読み取っていた。
それは、もはや学ぶではなく思い出すものだった。
「……ぁ」
体内を駆け巡る凄まじい衝動を、自分の意志で抑えられるようになった頃。ようやく俺は正面に顔を向けることができた。説明を求めようと白い鹿を探す。それは、暴風の中で立ち上がるような行為だった。焦点の合わなかったはずの視界が、ゆっくりと輪郭を取り戻していく。身体を作り直された影響か、以前よりも視力がよくなったのかもしれない。より鮮明に、はっきりと白い鹿の姿が見えた。
だから、この崩壊していく世界に取り残されるはずの白い鹿が、どこか満足気に微笑んでいるのが見えてしまった。白い鹿は俺にもう何も語ってくれない。
それでも、心で通じ合っているような感覚があった。言葉がなくても、白い鹿が『心配はいらない。だから、行け』と語りかけているのが分かった。だから、俺はそんな考えを切り捨てて、伏見を助けることだけに意識を集中させた。
この崩壊していく世界の中で、そんな感傷に浸っている余裕はなかった。
この崩壊していく世界の中で、そんな憂いを帯びることはできなかった。
もしかしたらこれは、俺が人間でなくなってしまった証なのかもしれない。伏見やイノシシ男に、あるいは神に近づいた代償なのかもしれない。
だが、もうそんなことは関係ない。俺は白い鹿の沈黙も、崩壊する世界の悲鳴も、すべてを振り払って——ただ伏見を助けることだけに意識を集中させえていた。それが、俺の中に残っている最後の人間らしさだったのかもしれない。だが、どんな力に塗り替えられたとしても、この想いだけは、決して消えることはなかった。
※ ※ ※ ※ ※
「……うっ……」
意識が、視界がまだ歪んでいる。
頭の奥がじんじんと痺れ、思考がまとまらない。最悪な目覚めだった。それに、今朝の天気予報の通りに、雨が降り始めたようだ。天井のガラスを叩く、パラッ、パラという水音が、眠っていた俺の耳にまで届いた。その音が、妙に近く感じる。憂鬱だった。まるで、雨粒が直接脳に響いているような感覚。生臭い。鉄臭い。赤く、冷たい水が、意識の奥にまで染み込んでくるかのようだ。温かな太陽の光に抱きしめられながらベッドの上で目を覚ました今朝の遅刻が、まだマシに思えてくる。だが、それでも、俺がゆっくりと顔を上げた。すると視界の端で、躍動感のある二つの影が交わっていた。
——まだ、誰かが戦っている。
いや、決まっているな。伏見とイノシシ男だ。
彼女はゾンビの群れをすべて引き付けながら、たった一人で戦い続けていた。まるで、俺を守るように。その姿は、痛々しいほどに美しかった。黒い髪が頬に張り付き、白衣はさらに血で汚れていた。それでも、彼女は一歩も退かず、イノシシ男に向かって踏み込んでいた。一進一退。その動きは、まるで舞うように滑らかで、そして必死だった。彼女の身体が、俺のせいで傷ついている。その事実が、俺の胸に重くのしかかる。
「……ッ」
身体に違和感がないか確かめるように俺は、静かに立ち上がる。
膝に手を突き、呼吸を整えながら、ゆっくりと身体を持ち上げる。
まるで生まれ変わったかのように、身体は軽く、力に満ち溢れていた。
不調はない。それどころか、今も身体の芯から力が湧き上がってくる。
そこで俺は、ふと違和感に気付き視線を下げる。腹部に開いた小さな穴が完全に塞がっていた。皮膚は滑らかで、血の跡すら残っていない。最初から何もなかったかのように、イノシシ男につけられた完全に傷が消えていた。
「優斗さん、無事だったんですか⁉」
縦横無尽にこのフロアを駆け回っていた伏見が血相を変えてそう叫んだ。
イノシシ男も、信じられないものを見るような目で俺のことを凝視している。
口を大きく開けて、呼吸すらできないほどの衝撃を受けていた。
二人ともまるで幽霊でも見たような、呆けた顔をしている。
まあ、流れた血の量を見ると死んだと思われても仕方がない。
血の海とまではいかないが、地面は俺の血で真っ赤に染まっている。人間一人が死ぬには十分すぎる量の血が流れていた。
「ああ、大丈夫だ……」
「大丈夫って、その足元に広がる血を見てください。全部、優斗さんの血ですよ! 重症じゃないですか! 無茶はしないでください」
「いや、大丈夫だよ。俺が助けるから。ヒーローになるから……」
「だ、だから——」
伏見の声がもう聞こえない。いや、聞こえなくなった。
鼓膜には届いているはずの彼女の声が、どこか遠くに流れていく。
俺の意識は外から内へと向き、現実から少しずつ剥がされていく。
まあ、聞こえなくなってしまったものは仕方がない。
俺は黙って、ポケットから零れ落ちた勾玉を探す。
視線を落とすと淡い緑色の勾玉は、俺のすぐそばに転がっていた。瓦礫に埋もれることなく、血に濡れることなく、まるで俺を待っているかのように淡い光を放っていた。
掌にすっぽりと収まるサイズのその勾玉が、今はとても愛おしく感じる。
この勾玉を見ていると、不意に幼馴染の少女との約束を思い出してしまうからだ。
彼女は心の機微に敏感で、俺が落ち込んでいると何も言わずに隣に座ってくれた。俺が怪我をしたら、誰よりも早く気付いてくれし、姉のように怒ってくれた。そして、何より、俺は彼女の笑顔が好きだったんだ。俺にいつも『ヒーローになれる』と言ってくれた彼女には、ずっと、笑っていて欲しかった。初恋の相手。子供の頃に彼女が引っ越してしまってもう会えなくなった。だけど、あの弾けるような、優しい笑顔だけはずっと俺の中に残っていた。辛いときや苦しいときは、彼女の笑顔を思い出して、頑張っていたはずだ。ヒーローになるという夢を忘れるまで。……もしかしてだが、幼馴染の少女とした約束を、この年齢になっても大事にしているなんて気持ち悪いことなんだろうか?
だけど、思い出してしまったものは仕方がない。
これは、この想いは、ずっと俺の中に残っていたものなんだから。コウイチ君がいなければ、ずっと忘れていたままだった。だが、燃えるようなこの感情はずっと、ここにあったのだ。正義の味方でも、悪の敵でもない。やっぱり、俺はヒーローになりたい。なぜならヒーローには対義語なんて存在しないから。皆を救うには、どちら一方の敵にも味方にもなるわけにはいかないから。だから俺は、どちらも敵わないような唯一無二のヒーローになりたい。そんな幼い願望(ねがい)を胸に秘め、俺は勾玉へと手を伸ばす。
「ッ!」
そして、すぐそばに落ちていた勾玉を力強く握りしめたその瞬間——バチバチと身体から雷が咲いた。青い火花が一つ、二つと弾け、柏手を打つかのように空気を震わせる。
白い鹿の頭に触れた時と同じような感覚だ。ピリピリとした痺れのせいで、勾玉に触れている指先から腕、そして肩の感覚がじわじわと消えていく。
欲望という名の熱が、全身にじんわりと伝わっていく。
そんな、その熱は身体を一から作り直されていくような不思議な感覚を伴っていた。だが、俺の外見には劇的な変化が起こっていた。
この熱のせいで、今まさに俺の身体は変貌を遂げようとしていた。
心臓の鼓動が爆発するほど熱く、全身の筋肉が風船のように膨らみ、躍動する。
筋肉の繊維が千切れ、血流が加速し、骨の奥に衝撃が走る。だが、魂はそのことに何も思っていない。むしろ、率先して受け入れている。魂に合わせて、身体が本来の姿に戻っているかのようだった。胸が高鳴る。フワフワとした熱が、俺の身体を浮足立させる。
そして、違和感が生じた。全身の毛穴が開いたような、逆立つような感覚。
それは、俺の身体が人間の枠から逸脱した決定的な瞬間だった。
パキッ、ピキッ——と軋むような音を立てて、爪が漆を塗ったかのように黒く変色した。
硬質な光沢を帯びたその爪は、もはや人間のものではなかった。蹄だ。
視線を下げると、両腕が獣の体毛に覆われていた。焦げ茶色のその毛は風に逆らうように立ち、青白い雷の残光を受けて微かに揺れている。
ズボンの隙間から、短い尻尾が顔を出していた。ふわりとした白い毛に包まれたその尻尾はまるで綿のようで、俺の感情を反映するかのように左右に揺れ動いている。
「……これが、変身ってやつか?」
そう呟くと、頭部にずっしりとした重みがのしかかってきた。そのせいで、身体のバランスを崩し、思わず一歩よろめく。何事かと頭上に意識を向けると、視界の端に木の枝のようなものが映った。見覚えがある。それは、あの鹿と同じ枝角だった。
その形は複雑でありながら調和があり、枝分かれした先端には時に鋭く、時に丸みを帯びている。表面には年輪のような模様が刻まれていた。この枝角には、まるで俺が歩んできた時間をゆっくりと語り聞かせるかのような存在感があった。俺は突然、頭部に生えてきた枝角を揺らしながら、静かに子供の頃の記憶をたどっていた。
日曜の朝。特撮ヒーローの変身シーンをテレビにかじりつくように見ていたあの頃。俺もまた、その姿に憧れを抱いた少年の一人だった。だが、いざ自分がその立場になると困惑以外の感情が湧いてこない。もっと心の底から感動できるものだと思っていたのに。正直、ちょっとだけガッカリした。……まあ、だけど。変身するとイノシシ男の顔がはっきりと見えるようになった。それだけで、今は十分だった。
「スゴイな……」
完全に変貌を遂げた俺の身体は、もはや人の形を保てていなかった。
軽く拳を握っただけで、全身に力が漲っているのが分かる。
自分でもまだ制御しきれないほどの強大な力が、この身に宿っている。
俺の身体のはずなのに、俺の身体じゃないみたいだ。まるで別物だった。とてもよく似た別の器に中身だけを入れ替えて渡されたかのような、そんな奇妙な違和感がある。
「え? 優斗さん、それは⁉」
「俺にもよくわからない。ただ……変な夢を見ていたんだ。真っ白な世界で、白い鹿と話していた。そんな、夢を見ていたんだ。そして、その白い鹿が、戦いに参戦するかって聞いてきたんだ。俺がそれに答えたら、こんなことになってた」
「わ、私の時とまったく同じ状況です。なら、優斗さんにも何か能力が……」
たどたどしい説明だったが、どうやら伏見はそれでも理解してくれたみたいだ。
むしろ、伏見の口から能力という単語を聞いた途端、堰を切ったように俺の脳に情報が流れ込んで——いや、思い出していた。それはとても不自然なはずなのに、自然だった。白い鹿から与えられたその能力を、元々俺の身体に備わっていた機能の一つであるかのように、使い方が分かる。それはまるで、人間が複雑な思考をしなくても二本の足で歩くことができるかのようなものだった。
言語化が難しいな。他の動物から見れば高度な技能でも、人間にとってはそれほどのことではないと言えばいいのだろうか。……まあ、こんな考えが頭に浮かぶこと自体、俺が人間の枠組みから外れてしまった何よりの証拠なのだろう。俺はあの白い鹿が渡してきた『何か』によって、身体の知らない機能を勝手に拡張されたみたいな感覚を覚えていた。それは、恐ろしくも心地がよい違和感だった。
「……なるほど」
胸の奥から込み上げてきた万感な思いを、俺はその一言ですべて吐き出した。
理性すら簡単に飲み込んでしまうほどの、圧倒的な万能感。それを抑えるだけでも精一杯だった。今の俺なら、何でもできる気がする。何にだってなれる気がする。そんな愚かな勘違いを正すように、深く息を吐いたと同時に——
「なんで、なんで、なんで、なんでだぁ!」
遠くの方で声を荒げたイノシシ男が俺に向かって突っ込んで来た。その声には、理性の欠片もなかった。恐怖と憎悪がただ言葉の形を借りて、彼の口から吐き出されているだけだった。野生の獣の咆哮とあまり変わらない。
だから、俺はイノシシ男を静止するために、前方に手を伸ばした。それは、何の変哲もない行為のはずだった。イノシシ男に止まれと伝えるかのように腕を伸ばしただけだ。だが次の瞬間、空気が帯電した。体中に静電気のような音が響き渡り、稲妻が絡みつくように腕に纏わりついてきた。体表を突き抜けるような雷の衝撃が、俺の身体を引っ張るように、導いてくれる。
前方に伸ばした手に視線を向けると、不格好で荒削りな雷が
青白い光を放つその刃先が、地面にぼんやりと光を落とす。その光が周囲のゾンビたちを牽制する中、俺はゆっくりとその刃をイノシシ男へと向けた。だが、俺の持つ雷を見て、彼は途中でタックルすることを躊躇したようだ。イノシシ男は構えを崩し、上体を起こした。そして、そのまま右の拳を大きく振り上げ、俺の顔に狙いを定め、ただ真っ直ぐ突き出してきた。無駄のない、良いストレートだった。恐怖で身体から力が抜けたおかげで、逆にリラックス状態になったのだろう。
「なんでだ、なんでだ。なんでいつも上手くいかねぇんだよぉ。オレは……オレだって、特別なはずなのに、選ばれたはずなのに、何でぇ! ズルいだろ。いつも、いつも、何でオレは特別になれねぇんだ! てめぇらは、一体は何なんだよぉぉ!」
イノシシ男のその叫び声は、魂の底から絞り出された慟哭だった。
それは彼の絶望の言葉でありながら、どこか問い掛けのようでもあった。俺に対する疑問……いや、世界そのものに対する抗議だったのかもしれない。理屈も理論もない。それは、今まで積み上げてきたものに否定された者だけが、報われなかった者だけが、発することを許された魂の慟哭。俺はそれを、黙って聞いていた。
彼の声は激しく震えていた。視線を前方に正すと、彼の目尻には涙が滲んでいるのが分かった。イノシシ男は今にも泣き出しそうな表情をしている。
イノシシ男の顔は怒りで歪んでいるはずなのに、どこか幼さを残していた。
きっと彼の心の中にあった何かが、自分が信じていたものが、音を立てて崩れている最中なのだろう。俺の目に映った彼の姿は、その現実が受け入れられず、ただ叫ぶしかできなくなった子供のように見えた。
何も言えなかった。何も言うべきではないように思えた。
なぜなら俺は、彼のその表情に気を取られて一度死にかけた。だから、二度目はない。
今度ばかりは容赦するわけにはいかない。ここで確実に、彼を止める。
それに、彼のその叫びに対する答えなど、この世のどこを探しても存在しない。言葉をかけることに何の意味も持たない気がした。だが、それでも——
「……ヒーローだよ」
俺はそう答えていた。
その答えが正しいかどうかは分からない。だが、俺にできる精一杯の言葉だった。
それは、彼の上げた慟哭に対する俺なりの誠意でもあった。俺がこれまでの人生で、積み上げてきたすべてを用いて、彼の問いに対する俺なりの答えを出した。
——そして、一歩踏み出した。
両足に浮遊感を感じる。重心を前方に傾けた瞬間、俺の身体は稲妻になったかと思うほど素早く駆け出していた。電光石火。白い鹿に能力を与えられて、ぶっつけ本番での戦闘だったが、もうコツを掴んだ。足を動かすのではなく、身体を倒れそうになるほど前方に傾ける。剣道でいう抜き胴をするイメージだ。そうすると安定する。
「……っ‼」
俺が急接近したのを見たイノシシ男は、顔色を変わった。面を食らったような表情をしていた。その瞳には驚きと、ほんのわずかに恐怖が混ざっている。俺の雷(かたな)の間合いに入ったのに、イノシシ男の反応が一瞬、遅れた。その隙を、俺は見逃さなかった。迷いなく、雷(かたな)を振りかざす。その瞬間——世界が再び、音を取り戻した。
イノシシ男の骨格の動き、筋肉の収縮、内臓の働き、血液の流れ、呼吸のリズム、汗の臭い。それらすべてが、これまで以上に鮮明に読み取れる。強烈なまでに、読み取れる。クラクラする。クラクラする。五感が敏感になりすぎて、世界が近すぎる。酔いそうだ。情報量の多さに、頭がオーバーヒートを起こしそうだ。脳が悲鳴を上げている。
だから、見えた。俺の目には、ただ刃の軌道だけが鮮明に映っていた。今の俺は、これまで以上に、五体満足の恵まれた身体を自分の意志で支配できていた。まるで、彼の身体が俺の感覚の延長線上にあるかのようだった。イノシシ男の次の行動が手に取るように分かるどころの話ではない。もはやこれは、予測ではなく予知に近い。
彼の動きが起こる前に、俺の身体はすでに反応していた。だから、イノシシ男の手に触れないように、その刃を彼の太い胴体に滑り込ませることができた。俺の雷(かたな)が、彼の動きを先回りしている。俺がしたことは、ただその軌道をなぞるように、青く波打つ雷を走らせただけだった。それは、俺の意志と力が完全に重なった一撃だった。
一閃。イノシシ男の肉を裂き、骨を断つ感触が、腕を通じてじわりと伝わってきた。
心理的な抵抗は確かにあった。人を斬るという行為に、心がわずかに軋んだ。だが、彼をここで止めるために、俺は自分の能力を信じることにした。『何でも斬れるこの雷』は、『何も斬らない』という選択を可能にすると。雷鳴が爆ぜる。イノシシ男の身体がわずかに浮かび、そして崩れるように地面へと倒れ込んだのがチラリと見えた。その動きは、まるで糸が切れた操り人形のようだった。俺はイノシシ男を無情にも斬り捨てた。いや、『斬ったつもり』だった。俺は踵を地につけて、ブレーキを踏むように、ゆっくりと速度を落とす。そして、振り返る。イノシシ男の無事を確かめるために、背後へ視線を向ける。
俺の遥か後方で、イノシシ男が地面に横たわっていた。彼の怪我の具合はまだ分からない。ここからだと、よく見えない。焦げたような臭いが、充満している。俺は白い鹿に名付けられた『鹿鳴』の能力を確かめる絶好の機会だと、自分に言い聞かせて、イノシシ男の安否を確かめるために、恐る恐る近づいた。
すると、彼は雷に打たれたかのようにピクピクと小刻みに痙攣しているだけだった。人の肉を斬る感触は俺の手に確かに残っている。だが、彼の身体には傷一つない。どうやら気絶しているだけのようだ。そして、戦いの終わりを告げるように、イノシシ男の変身がゆっくりと解除された。全身を覆っていた茶色の獣毛が、湾曲した鋭い牙が、漆を塗っているかのような黒い爪がなくなり、どんどんと元の姿に戻っていく。まるで獣の皮を脱ぎ捨てるかのように、彼の身体は少しずつ人間の姿に戻っていた。だが——
「……これで勝ったのか?」
口に出してみても、勝ったという実感が湧かない。
眠っているかのように浅い呼吸を繰り返しているイノシシ男に目を向けると、そこにいたのは体格の良い、ただの青年だった。左耳につけたピアスが特徴的な、どこにでもいそうな普通の青年。さっきまでの理性を欠いた獣の姿は、もうどこにもなかった。
その変化に、俺だけがこの場に取り残されているかのような疎外感を覚えてしまった。
ふと、誰かに見られているような気配を感じ、周囲を見渡す。すると、伏見が驚いたような表情を浮かべてこちらを見ていた。それに、ゾンビたち……いや、敵の能力で操られていた人々が、力なく倒れていた。俺が斬ったわけじゃない。伏見の様子を見るに、彼女が能力で倒したわけでもなさそうだ。つまり、彼らは勝手に倒れたのだ。
そこでようやく、遠くから聞こえてきたサイレンの音に気が付いた。今、やっと警察が到着したのだろう。いくら耳が良くても、普通なら建物の中から外の音が聞こえるわけがない。変身しているせいで、獣のように聴覚も鋭くなっているのだろう。
サイレンの音が俺を現実に引き戻す合図のように耳の奥で響いていた。だが、そのおかげで、俺は管理室にいる黒幕が変身を解除し、キングスクエアから逃げ出したという可能性に辿り着くことができた。
「あ、そうだ。管理室に行かないと——」
そう言って歩を進めようと右脚を動かした瞬間、視界が歪んだ。
目の前が揺れた。いや、視界だけじゃない。
まるで天地がひっくり返ったみたいに、身体がふわりと浮いたと脳が錯覚した。
頭がクラクラしている。それに、身体が鉛のように重たい。息切れも激しい。
おかしい。おかしい。俺は目を覚ましてから、まだ少ししか動いていないはずなのに、ここまで疲れているわけがない。何か別の理由があるはずだ。
「……っ‼」
そこで、初めて三人目がいる可能性が脳裏に過った。能力による支配が溶けてからまだ一分も経過していない。正確な場所はまだよく分かっていないが、管理室からここまで来るにはいくらなんでも早すぎる。なら、イノシシ男を助けるために、三人目が動き出したのではないかと考えるのは自然なことだ。この疲労感も敵の能力によるものかもしれない。警戒心が先に立ち、俺はなんとか絞り出した声で、伏見に鋭く注意を促した。
「伏見、気を付けろ。何かが変だ。これも、敵の能力かもしれない」
「いや、たぶんシンプルな貧血だと思いますよ?」
「はぁ? ひ、貧血?」
「そうですよ。ほら、あれを見てください! あの血溜まりが見えますか? あれ全部、優斗さんの血なんですよ? 明らかに、血の流しすぎ、ですよね?」
俺は思わず伏見に聞き返してしまった。すると、伏見は呆れるように後方を——いや、俺が倒れていた辺りを指差した。その先には赤黒い血の跡が広がっていた。全部、俺の身体から流れ出た血だ。そういえば、俺は血を失いすぎていたんだったな。
戦いの最中で、イノシシ男を無力化することだけを考えていた。だから、何も感じていなかった。だが今、身体がすでに限界を迎えていることを、俺はようやく理解した。
「……あー、なるほど。これが、貧血か……」
「そうですよ。正直、私もちょっとだけ引いてますからね? いえ、嘘です。ドン引きですよ。何でそんな状態なのに優斗さんは、まだ動けるんですか? もっと言えば、何を一人でイノシシ男を倒しているんですかぁ? はっきり言って、異常ですよ?」
「……あ、ダメだ。ヤバい。もう意識が……伏見、悪いが警察への説明は、まかせる……」
「ちょっと待ってください。そんな嘘くさいことありますか? それに聞きたいことが多すぎて、今、優斗さんに気を失われるとかなり困るんですけど? 私、そもそも警察への対応なんてできない、って、え? ちょっと? これ、本当に? 優斗さん? さすがに起きてますよね? 優斗さん、優斗さーん⁉」
鈴を転がすような綺麗な声が、遠のいていく。俺が最後に見た伏見の顔は、呆れと心配が入り混じっていたみたいだったが、気のせいだろう。それに、彼女の声に応えるだけの余裕が俺にはもうなかった。眠い。とても眠い。俺は、管理室に向かわないといけないという使命を果たせず、再び意識を失ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます