第8話 日常は高い
女王は、橋脚の影で待っていた。
鉄骨の脚が床を叩くたび、火花が散る。油の匂いが濃くなる。天井の梁から、黒いワイヤーが垂れて、空気に線を引いた。
【出現:鉄骨蜘蛛(橋脚の女王)】
でかい。硬い。速い。
そして――コアの前にいる。
最悪の配置だが、逆に言えば答えは単純だ。
俺が倒すべきは女王じゃない。
“コア”だ。
恐怖はコスト。払うなら最小でいい。戦うのも同じ。勝ち方が一つなら、最短で行く。
俺は視界の端で赤黒い脈動を確認する。柱の間。あの奥だ。距離は近い。だが、女王の脚とワイヤーが通路を潰している。
――抜ける。
そのために必要なのは、数秒。
俺は白石にだけ聞こえる声で言った。
「白石。次、俺が“今”って言ったら、ヘッドライトを最大にして、女王の顔に向けろ。目を合わせるな。光だけだ」
「……はい」
「そのあと、動くな。俺が引っ張るまで、絶対に」
「……はい」
素直。反射が遅れない。いい。
女王が、低い振動音を鳴らした。鳴き声じゃない。金属が擦れる音だ。ワイヤーが一斉に持ち上がる。
来る。
俺の足元を狙って、黒い線が走った。
絡めて、転ばせて、喉を刺す。
初見殺しの定番だ。
だが、俺は二回目だ。しかも、十年分の“死に方”を知ってる。
俺は前に出ない。半歩だけ後ろへ。ワイヤーの先端が床を叩く。火花が散る。
次の瞬間、女王の脚が落ちてきた。
叩き潰す気だ。
俺は左へ滑る。油で足が逃げる――だから踏ん張らない。滑るなら、滑る前提で角度を変える。
脚が床を砕き、衝撃が腹に響いた。
ヘッドライトの光の外側で、赤い目がいくつも動く。子蜘蛛が湧く。数は多い。脆いが、噛まれたら厄介だ。
俺はハンマーを振り下ろす。
ガン。硬い。蜘蛛の甲殻は砕けない。だが、衝撃で“中身”が潰れる。
黒い液が飛び、二匹目が跳ぶ。
叩く。叩く。叩く。
単調だ。だからミスが出る。集中を切らすな。
女王が脚を引き、今度はワイヤーを横薙ぎに走らせた。空間を切る刃だ。
避ける。じゃない。
通す場所を、俺が作る。
俺はバールを抜き、ワイヤーに引っ掛ける。
火花が散った。金属音が耳を刺す。
切れない。だが――“引ける”。
梃子で角度を変えて、ワイヤーの軌道を僅かにズラす。ズラせば、隙間ができる。
そこへ――踏み込む。
女王が反応した。脚が二本、同時に落ちる。
来るなら来い。
俺は落下点の“内側”へ入った。脚は外へ落ちる。外側に逃げると巻き込まれる。内側なら、脚の付け根が近い。
俺はハンマーを振る。
狙いは関節。
ガン――衝撃が伝わり、女王の脚が僅かに沈む。砕けない。だが、揺れる。
硬い相手は壊すんじゃない。崩す。
もう一発。もう一発。
女王の体勢が、ほんの一拍だけズレた。
俺は息を吐いて、言った。
「今」
白石のヘッドライトが、急に眩しくなった。
光が女王の頭部を刺す。赤い目が細くなり、ワイヤーの動きが一瞬止まる。反射――いや、優先順位の切り替え。
女王は“光源”へ向く。
その一瞬でいい。
俺は床を蹴った。
柱の間を、一直線。
ワイヤーが追ってくる。脚が落ちてくる。だが、全部“後ろ”だ。今の俺は止まらない。止まった瞬間に死ぬ。だから最短で終わらせる。
赤黒い脈動が目の前で膨らんだ。
ダンジョンコア。
心臓みたいに、どくん、どくんと脈を打っている。
俺はバールを突き刺す。
硬い。芯がある。
ハンマーで追撃。
ガン。
ガン。
ガン。
背後で金属が裂ける音。女王が追いついた。脚が影になる。
だが――もう遅い。
ひびが走った。
最後に一撃。柄が手のひらに食い込む。
ぱん、と弾ける音がした。
赤黒い光が霧散する。
【目標達成:ダンジョンコア鎮圧】
【緊急クエスト:国土防衛 成功】
【報酬:スキルポイント+3】
【報酬:魔石(中)×3】
【報酬:
【称号:《第三防衛線の守護者》を獲得】
女王の脚が止まった。
ワイヤーが、糸の切れた操り人形みたいに落ちる。
巨体が傾き、柱にぶつかって、低い振動で崩れた。死体が残るかはどうでもいい。目的は達成した。
床が震える。空間が歪む。白い光が視界を舐める。
崩壊が始まった。
「白石!」
俺は振り返り、白石の手首を掴む。彼女は命令通り動いていなかった。だから、すぐ引ける。
「……はい!」
俺たちは走った。ワイヤーの海を飛び越え、柱の影を抜ける。
背後で、女王の巨体が完全に沈む音がした。
次の瞬間、視界が真っ白になった。
◇
外界。
浮島町公園は、もう“撮影スポット”じゃなかった。
悲鳴。怒号。救急車のサイレン。スマホのシャッター音。ヘリのローター。
――現代の地獄だ。
ゲートの周囲には、人が増えている。港湾地帯の野次馬は少ないと思ったが、情報の伝播が早い。誰もが「一発目の潮風公園」を見て学習してる。
良い学習も、悪い学習も。
俺はマスクを深くして、帽子のつばを下げたまま《ゲート管理》を開く。
【ゲート管理:浮島町公園】
・入場条件設定
・侵入者検知
・ドロップ課税(解放済)
・ダンジョン保護(未解放)
同じメニュー。問題ない。
やることは一つ。
このゲートを“取られない形”にする。
俺は指を動かす。
【入場条件:当面の間、単独入場のみ許可】
【入場条件:誓約】
【内容:暴力・脅迫・窃盗・囲い込み行為の禁止】
【違反時:報復(自動)】
違反時損失。迷わない。
派手じゃない。だが効く。
【損失:発声阻害】
これでいい。
口が武器の連中は、勝手に弱体化する。
次、侵入者検知。
【侵入者検知:ON】
【通知条件:群集形成/武器様携行/撮影機材の複数所持】
雑だが、初動には十分だ。
白石が、俺の袖を弱く引いた。
「……時南さん、私……手が、震えて……」
彼女の声は小さい。だが、ちゃんと出ている。
それが重要だ。
生きてる証拠。
「震えていい。止めなくていい。動けるなら問題ない」
「……はい」
白石は頷いた。頷けるなら、次へ進める。
俺は公園の端へ回り、さっきの黒いワゴンへ向かう。鍵は俺が持ってる。資産は、使える時に使う。返すのは後だ。
運転席に乗り込み、エンジンをかける。
白石が助手席でシートベルトを締めた。
その動作が、やけに“日常”に見えて、俺は一瞬だけ息を止めた。
――日常は、戻らない。
戻るなら、金と血が要る。
◇
潮風公園近くのウィークリーマンションに戻ったのは、夕方だった。
部屋に入った瞬間、俺は風呂場へ直行して浴槽に水を溜める。次に、ペットボトルの水を並べる。
前世で何度も見た。物流が詰まると、水も詰まる。電気も詰まる。そんなのは、勇者じゃどうにもならない。
できるのは――先に溜めることだけだ。
白石は洗面所で手を洗っている。血と油と、黒い汚れが排水に流れていく。
俺はキッチンで、カップ麺を二つ開けた。湯を注いで、蓋を押さえる。三分。
ただの三分。
なのに、今日の三分は長い。
「……ごめんなさい。私、戦ってないのに……勝手に、疲れてて」
白石が小さく言った。
「疲れていい。むしろ疲れてない方が危険だ。感覚が壊れてる」
白石は黙って頷き、椅子に座る。
俺はテーブルに現金を置いた。
「今日の分。迷惑料込み」
「え……そんな……」
「投資だ。回復役は“生きてるだけで価値”がある。君が倒れたら、明日からの損がデカい」
白石の眉が少しだけ寄る。納得しきれない顔。
でも、受け取った。
それでいい。
カップ麺の蓋を開ける。湯気が立つ。匂いが部屋に広がる。
味はいつものそれだ。
なのに、今日は少しだけうまい。
白石が箸を持つ手を止めて、ぽつりと言った。
「……ニュース、ずっと“調査中”って言ってます」
「言うだろ。調査してる間は責任が発生しない」
「……ひどい」
「現実だ。だから俺が動く」
白石はそれ以上言わず、麺を啜った。
沈黙が落ちる。
その沈黙が、妙に落ち着く。
戦闘の静けさとは違う、ただの部屋の静けさ。
俺はスマホを開き、通知を確認する。
ゲート管理の警告が、いくつか溜まっていた。
【侵入者検知:通知】
【潮風公園ゲート:誓約違反(脅迫)】
【報復(自動):発動】
【侵入者検知:通知】
【幕張海浜公園ゲート:誓約違反(囲い込み)】
【報復(自動):発動】
……勝手に動いてる。
いい。これが“留守番”だ。
俺は麺を啜りながら、最後に一つだけ画面を開いた。
《ステータス》。
レベル。称号。スキルポイント。
数字が積み上がっていく。
その数字の先に、国がある。
白石が、麺を食べ終えた後で小さく言った。
「……明日、どうするんですか」
俺は箸を置いた。
「寝る」
「……寝る?」
「寝ないと死ぬ。死んだら終わりだ」
白石が少しだけ笑った。泣きそうな顔で。
「……そうですね」
俺は頷く。布団を二つ敷く。彼女を奥に、俺は手前。
明日が来るかどうかは、運じゃない。
準備だ。
電気を落とした、その瞬間。
視界が、赤く染まった。
【緊急クエスト発生:国土防衛】
【第四防衛線:――】
【発生まで:00:――:――】
俺は、ため息を飲み込んだ。
日常は、高い。
――だから、稼ぐ。
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