第6話 湾岸の牙

骨が鳴ると、人は一瞬だけ正気に戻る。

 戻らない奴は――次に折るだけだ。


 男が崩れ落ち、バットが砂の上を転がった。


 その“一拍”で、武装した連中の顔から笑みが消える。


「てめぇ……!」


 鉄パイプの男が踏み出した。


 俺はハンマーを下げたまま、視線だけで止める。


「動くな。次は“握れない手”じゃ済まない」


 通じるかどうかは、どうでもいい。

 今この場で必要なのは、理屈じゃなく“恐怖の向き”だ。


 背後から、ぴちゃり、と嫌な音。

 ゲートの縁から漏れる黒い霧が、濃くなっている。


 ――出る。


 俺は白石を背中越しに押さえ、低く言った。


「白石。目を合わせるな。声も出すな」


「……はい」


 その瞬間。

 霧の中から、細長い影が跳んだ。


 《湾岸鼠》。


 湿った毛を逆立て、犬ほどの体で宙を裂く。

 狙いは、人間の足首。


 俺は半歩だけ前に出て、ハンマーを振り下ろした。


 ぐしゃ。


【討伐:湾岸鼠】

【経験値+7】

【ドロップ:魔石(小)×1】


 血と砂が混じって、黒い塊になる。

 同時に、視界の端に薄い選択肢が浮かぶ。


【ユニークスキル《損益配分》:発動可能】

→【自分】/【保留】/【対象指定】


 俺は迷わず【保留】。

 今レベルが上がっても、外の敵は減らない。


 次の鼠が跳ぶ。

 武装連中の一人が反射で鉄パイプを振る――空振り。


 湾岸鼠は地面を滑り、男の脛に噛みついた。


「ぐぁああっ!」


 男が転げる。

 周囲の空気が、一段だけ冷える。


 恐怖の矛先が「俺」から「ゲート」と「鼠」へ移った。

 ……賢い。賢いなら邪魔をしない。


 だが、まだ足りない。


 鉄パイプの男が、怒りで頭に血を上らせて突っ込んでくる。


 俺は足元の石を拾い、男のパイプの先へ投げつけた。


 カン、と乾いた音。

 軌道がわずかにズレた瞬間――距離を詰める。


 膝。

 肘。

 手首。


 最短で、“握れない”角度へ折る。


「がっ……!」


 叫びが上がる前に、俺は耳元へ息だけ落とす。


「まだやるか?」


 返事はなかった。

 代わりに、残りの連中が半歩引いた。


 いい。

 なら生き残れる。


 そして、俺の邪魔をしない。


 俺は白石の手首を掴む。


「走る」


「はい!」


 俺たちはゲートへ向かった。


 途中、スマホを掲げて突っ立ってる馬鹿がいる。

 “撮る”のが現代の本能なのはわかるが――死んだら終わりだ。


「下がれ!」


 男がムッとした顔をした、その足元に湾岸鼠が跳んだ。

 俺がハンマーで叩き潰す。


 男の顔から血の気が引く。

 ようやく、人混みが後ろに引いた。


 警察の拡声器が遠くで鳴っている。


『落ち着いてください! 近づかないでください!』


 遅い。

 でも、ないよりマシだ。


 俺はゲートの縁に手を伸ばした。


 冷たい。

 潮風公園のゲートより、冷え方が鋭い。


 ――嫌なタイプだ。


「白石。目を閉じろ。吐き気が来ても呼吸は止めるな」


「……はい」


 俺は白石の手を引いて、霧の中へ踏み込んだ。


     ◇


 目を開けると、そこは“白”じゃなかった。


 薄暗い。

 コンクリートの壁。

 床には浅い水が流れ、金属と藻の匂いが混じる。


 ――排水路。都市の裏側だ。


 天井には赤い非常灯みたいな光が点々と浮いている。

 俺のヘッドライトの輪が、その上を舐めた。


 壁に、落書き。

 現代とダンジョンが混ざっている。


 最悪だ。


 そして視界に、赤い通知。


【緊急クエスト:国土防衛】

【第二防衛線:千葉湾岸】

【目標:ダンジョンコアを鎮圧せよ】

【制限時間:27:43】


 もう三分以上削れてる。

 外で手間取った分だ。


 ――最短で行く。


 俺は白石の肩を掴み、壁際へ寄せた。


「右手で壁を触って進め。滑る。転ぶな」


「……はい」


 白石は頷いて、息を整える。

 怖いのに手を動かせる。強い。


 水音の奥で、かさかさ、と乾いた音がした。

 鼠の爪。


 来る。


 ヘッドライトの輪の中へ影が飛び込んだ。


 ハンマーで叩き落とす。

 ぐしゃ。


【討伐:湾岸鼠】

【経験値+7】

【ドロップ:魔石(小)×1】


 続けて二体。三体。

 群れだ。


 排水路の壁穴から黒い毛玉が湧いてくる。

 俺は“穴”を潰す。


 バールを取り出し、格子の隙間に突っ込む。

 梃子で歪ませて塞ぐ。


 ――出てくる場所を減らす。これが最短だ。


「白石。後ろを見るな。俺の背中だけ見ろ」


「……はい」


 鼠が跳ぶ。

 叩く。

 叩く。

 叩く。


 単調だが、集中を切らした瞬間に噛まれる。

 噛まれたら終わる。普通の人間なら。


 水の流れが強くなる。

 排水路が下り坂になっている。


 奥が低い。

 つまり、コアは奥にある。


 分岐。俺は迷わず左。

 右は水が濁りすぎている。泥じゃない。油だ。罠。


 左へ入った瞬間、天井から黒い塊が落ちてきた。


 鼠じゃない。もっと大きい。

 ――子どもサイズ。


 俺は反射でハンマーを振る。


 ガン、と硬い音。

 弾かれた。


 硬い甲殻。


 白石が息を呑む。


「……っ!」


 影が水に落ち、波が跳ねる。

 そこから目だけが光った。


 《湾岸鼠(装甲)》。


 前世では第二防衛線の奥にいた。

 ……早い。台本がまたズレてる。


 装甲鼠が水面から跳ぶ。

 狙いは、アキレス腱。


 躱しきれない距離だった。


 だから受ける。


 脛にバールを当て、噛む顎をこじ開ける。

 だが牙が滑った。


 皮膚を裂き、肉に食い込む。


「っ……!」


 熱い。

 痛い。

 そして、冷える。


【状態異常:呪蝕】

【効果:HP持続減少/回復効果減衰】

【残り:03:00】


 ――来た。呪いだ。


 俺はバールを捻り、顎を折る勢いで引き剥がす。

 装甲鼠が呻いて下がる。


 ハンマーで頭を叩き潰す。

 ぐしゃ。


【討伐:湾岸鼠(装甲)】

【経験値+12】

【ドロップ:魔石(小)×2】


 だが、呪蝕は残る。

 体の奥が削れていく。呼吸が少し重い。


 白石が青い顔で言った。


「と、時南さん……足……!」


「見なくていい。治せ」


「……はい!」


 白石の《小治癒》が温かく傷口を塞ぐ。

 だがHPの減り方が止まらない。


 回復が追いつかない。

 ――当然だ。呪いは“仕様”だから。


 時間がない。


 呪蝕の残り三分。

 制限時間は二十七分弱。


 このまま走り切れるか? 走れる。

 でも途中で噛まれたら終わる。


 なら、ここで対処する。


 損得で見れば、最小の損で最大の効果。


 俺は《損益配分》を開いた。

 保留した利益が積まれている。


 俺は白石を指定する。


【《損益配分》】

【対象:白石 芽衣】

【配分:経験値/スキルポイント】


 白石の目が見開かれる。


「……また、レベルが……!」


「選択肢を読み上げろ。状態異常を消せるやつが来る」


「えっと……《解毒》と、《浄化》と……《回復量増加》……!」


 当たり。


「《浄化》」


「……はい!」


 白石が選んだ瞬間、掌が淡く光った。

 《小治癒》の温かさとは違う、冷たい水みたいな光。


 白石が俺の脛に手を当てる。


 ぞわ、と鳥肌。

 体の奥で黒い糸が焼き切れる感覚。


【状態異常:呪蝕 解除】


 息が戻る。

 視界がクリアになる。


 白石が泣きそうな顔で笑った。


「……消えた……!」


「よし。次からは噛まれる前に潰す」


 呪いが消えた今、最短に戻れる。


「白石。ここから先は俺が前。お前は三歩後ろ。光は落とすな」


「はい!」


 俺たちは走った。


     ◇


 排水路の終わりは広間だった。


 天井が高い。

 水が溜まり、膝下まで浸かる。


 中央に、赤黒い光が脈打っている。


 ダンジョンコア。


 だが、コアの前に“島”がある。

 瓦礫が積まれた小山。


 その上に――でかい影。


 鼠。

 ……いや、犬だ。


 濡れた毛の下に筋肉が詰まっている。

 目が四つ。


 進化個体。


 前世の記憶が名前を吐き出す。


 《湾岸鼠(呪い牙の王)》。


 こいつが護衛。

 そしてこいつの呪いは、さっきより強い。


 白石が掠れた声で言った。


「……あれ、無理です……」


「無理じゃない。最短で殺す」


 俺は水を蹴り、島へ向かう。

 水の中は動きが鈍る。だから上で勝負する。


 呪い牙の王が跳んだ。

 速い。


 でも、目が四つある分、動きは直線になる。

 情報量が増えるほど、最適解に縛られる。


 俺は一歩だけ右。

 牙が空を噛む。


 その瞬間、バールを喉元に突き刺した。

 柔らかい。血が噴く。


 だが止まらない。噛みに来る。


 噛ませる前に、ハンマーを振り下ろす。


 頭蓋じゃない。

 鼻先。呼吸を奪う。


 ぐしゃ。


 王が呻き、体勢が崩れる。

 俺は喉元のバールを梃子にして裂く。


 気管が千切れる音。

 王が水に落ち、濁りが広がった。


【討伐:湾岸鼠(呪い牙の王)】

【経験値+45】

【ドロップ:魔石(中)×1】

【称号:《第二防衛線の勝者》を獲得】


 まだ終わりじゃない。

 壁穴から小さな鼠が湧いてくる。群れ。


 王が死んだ今、統率が乱れる。


 ――チャンスだ。


 俺は白石に叫ぶ。


「白石! 浄化を“俺”じゃなく“水”に使え!」


「え……水に……?」


「濁りを消せ! 視界を取る!」


 白石は一瞬だけ戸惑い、それでも頷いた。

 掌の光が水面へ落ちる。


 濁りが薄れ、底が見える。

 群れの位置が全部見えた。


 叩く。

 叩く。

 叩く。


 数は多いが脆い。

 最短で数を減らしながら、俺はコアへ向かった。


 赤黒い脈動が、目の前で大きくなる。


 壊す。


 バールを突き刺す。硬い。芯がある。

 ハンマーで追撃。


 何度も。


 排水路が呻く。

 そして――ぱん、と弾ける音。


 光が霧散した。


【目標達成:ダンジョンコア鎮圧】

【緊急クエスト:国土防衛 成功】

【報酬:スキルポイント+3】

【報酬:魔石(中)×3】

【報酬:権限ゲート管理を付与します】

【称号:《第二防衛線の守護者》を獲得】


 ……よし。


 二つ目のゲートも押さえた。


 俺はすぐ画面を開く。


【ゲート管理:幕張海浜公園】

・入場条件設定

・侵入者検知

・ドロップ課税(未解放)

・ダンジョン保護(未解放)


 ここも同じ。

 つまり、俺のレベルが足りない。


 だが――保留が増えた。

 必要な分だけ自分に寄せる。


【《損益配分》】

【対象:自分(時南 尚人)】

【配分:経験値】


【レベルアップ】

【Lv3→Lv4】

【Lv4→Lv5】


 ……ここだ。


 目立つのは嫌いだが、権限解放の利益は大きい。


【ドロップ課税:解放】

【ダンジョン保護:未解放】


 よし。

 今は課税を“使う”必要はない。だが握れるだけで価値がある。


 次、入場条件。

 潮風公園と同じ、最小の安全策。


【入場条件:当面の間、単独入場のみ許可】

【入場条件:誓約】

【内容:暴力・脅迫・窃盗・囲い込み行為の禁止】

【違反時:報復(自動)】


 設定した瞬間、追加の項目が出た。


【違反時損失を選択してください】

→【発声阻害】/【視界阻害】/【行動阻害】


 俺は【発声阻害】を選ぶ。

 派手じゃない。だが効く。表に出ない形で黙る。


 俺は白石に言った。


「戻るぞ。外でまだ揉めてる」


「……はい」


 白い部屋を経由し、扉を抜けた。


     ◇


 幕張海浜公園。


 空気が、さらにうるさくなっていた。

 悲鳴。罵声。配信者の叫び。


 そして足元には、湾岸鼠の死体が増えている。

 誰かが必死で戦ってる。


 ……いい。人間は学習する。前世より早い。


 俺は帽子のつばを下げ、マスクを深くして歩く。


 武装連中は――まだいた。


 折った男を抱え、仲間が怒鳴っている。


「ふざけんな! 門に入らせろ! 俺らが守ってやってんだぞ!」


 典型的な囲い込み。

 前世の悪夢、そのまま。


 だが、もう違う。


 男がゲートへ近づく。

 視界にシステムの文字が浮かび、男が舌打ちする。


「単独? 誓約? ……は? 同意しねぇと入れねぇのかよ」


 男は乱暴に“同意”を叩いたらしい。

 そしてすぐ、周囲へ怒鳴った。


「おい! 入る奴、金払え! 俺らが守ってやってんだ、わかる――」


 そこで、喉がひくりと跳ねた。


「ごっ……げほっ……!」


 咽頭が痙攣し、男が膝をつく。

 声が出ない。空気だけが漏れる。


 周囲がざわつく。


「門の呪いだ……!」

「さっきのネズミのせいじゃ……!」


 違う。

 これは、俺が置いた“ルール”だ。


 表に出ない形で。


 俺は白石の肩を軽く叩く。


「見なくていい。進むぞ」


「……はい」


 白石は頷き、目を伏せて歩く。


 俺たちは人混みを抜け、公園の端へ。


 そこで、視界がまた赤く染まった。


【緊急クエスト発生:国土防衛】

【第三防衛線:神奈川湾岸】

【発生まで:00:49:10】


 ……冗談だろ。


 台本は、もう紙切れだ。

 だが、損得は変わらない。


 ここで神奈川が落ちれば、首都圏の血管が切れる。


 俺はハンマーの柄を握り直した。


「白石。次だ」


 白石が息を呑み、頷く。


 現代ダンジョンは待ってくれない。

 なら――俺が先に行く。

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