第3話 報復者の仕事
――黒崎が、俺の名前を呼んだ。
喉の奥が冷える。
今は、血と泥の匂いをまとった“謎の男”として群衆を抜けたい。会社の同僚に身元が割れた瞬間、警察もメディアも、面倒が指数関数で増える。
俺は帽子のつばをさらに下げ、声色を落として言った。
「……人違いです」
「は? いや、待てよ。お前だろ。時南だよな?」
黒崎は、人混みをかき分けて近づいてくる。
その顔には、嫌な確信が浮かんでいた。
――こいつは“嗅ぎ分ける”。弱ってる獲物と、秘密と、金の匂いを。
背後では白石芽衣が、倒れた男に必死で指示を出している。
彼女の視界に、まだステータスの文字が残っているのがわかる。初期の適合判定は、精神が不安定な時ほど事故る。今、黒崎の相手に時間を割くのは最悪だ。
だから俺は、最短で黙らせる。
黒崎が俺の腕を掴もうとした瞬間、俺は手首を返して指を外し、彼の手を“握り返した”。
痛みは与える。だが、騒ぎにならない程度に。
「っ……!」
黒崎の顔が歪む。俺は笑わない。目だけで言う。
黙れ。
そして、小声で続けた。
「今、ここで俺を指差して騒いだら、お前は一生“現場の混乱を煽った男”として残る。動画も配信も山ほどある」
「……何が言いてぇ」
「損得の話だ。お前の“転売”の件、ここで暴かれてもいいのか?」
黒崎の瞳孔が揺れた。
効いた。
前世みたいに証拠を揃えていなくても関係ない。人間は、図星を刺されると防御が落ちる。そこを殴ればいい。
「……チッ。脅しか?」
「忠告だ。俺は今、忙しい」
俺は手を離し、黒崎の耳元に息だけ落とす。
「近づくな。次はもっと静かに終わらせる」
黒崎は唾を飲み込み、後ずさった。
俺の視界の端で、赤い通知が点滅する。
【称号:《報復者》:条件達成候補を検知】
……やっぱり、お前か。
前世で、黒崎は“覚醒”できなかった。それでも弱者を喰った。覚醒できなくても、こいつはこいつで害になる。
だから、今回は最初から潰す。
表に出ない形で。
◇
白石が男の呼吸を整えたのを確認してから、俺は彼女の肩に手を置いた。
「白石。ここから離れる」
「え……でも、まだ——」
「救急隊が来る。あなたがここで倒れたら、救える人数がゼロになる」
白石の目が揺れる。医療職の“責任感”が、彼女の足を縛っている。
わかる。だから、別の言い方をする。
「ここで死んだら、次はない。生き残って、回復役になれ。そうすれば今日より多く救える」
白石は唇を噛み、周囲を見回した。倒れている人間、泣き叫ぶ子ども、押し合う群衆。
現場は、もう個人の手でどうこうできる規模じゃない。
「……わかりました。応急処置の手順だけ、周りの人に伝えてから」
「それでいい」
白石は近くの若い男に声をかけ、倒れた人間の体位と、飲ませないこと、救急車が来るまでの対応を手短に指示する。的確だ。迷いがない。前世で名を残すのも当然だ。
俺は彼女の動きに、内心で評価を更新する。
利益率、上昇。
俺たちは潮風公園の端へ抜け、観光地の喧騒から外れた細い道を歩いた。
「……あなた、さっき“転売”って」
「今は聞くな。後で話す」
「……はい」
素直。話が早い。
角を曲がった先のコンビニの前で、俺は足を止めた。
店のテレビが、さっきの
『——東京都江東区の潮風公園で、正体不明の“門”が——』
前世と同じ。ここから情報が爆発する。
俺は白石にマスクを一枚渡し、店内に入った。
「買うのは三つ。消毒、替えの手袋、水。あと、会計は現金」
白石が頷く。
棚の前はすでに荒れていた。カップ麺が減り、ペットボトルの水がごっそり消えている。誰もが“何が起きたかわからない”くせに、“何かが起きた”ことだけは理解している。
レジの前で、若い男がスマホをかざしていた。
「え、タッチできない……なんで?」
店員が青い顔で首を振る。
「すみません、端末が……エラーで……」
やっぱり落ちたか。決済網の一回目の停止。
前世の“当たり前”が、今日も再現されている。
俺は列の最後に並び、財布の中身を確認して現金を用意した。
前の客がタッチ決済で詰まり、列が止まる。店員が半泣きの声で言った。
「現金でお支払いできる方、先にお願いします……!」
俺は静かに手を上げ、会計を済ませた。白石の分も払う。
外に出ると、白石が小さく呟いた。
「……本当に、世界が変わってる」
「変わる。だから生き残る」
俺はポケットから現金を一枚、彼女に渡した。
「非常時は、現金が一番強い。持っておけ」
「え、こんな……」
「投資だ。返すのは“生きてから”でいい」
白石は一瞬だけ目を見開き、頷いた。
◇
数分後、俺の借りているウィークリーマンションに着く。カードキーをかざして入室し、俺はすぐに玄関で靴を脱がせた。
「まず、手を洗え。泥と血は感染源になる」
「……はい」
洗面所へ向かう白石の背中を見ながら、俺は耳を澄ます。
廊下に足音はない。追跡もない。
黒崎は、引いた。
今は。
部屋のテーブルに水と簡易食を置く。白石に座らせ、俺は自分のバッグを開いて汚れた手袋を処分袋に入れた。
手の甲に、薄い裂傷がある。さっきの戦闘でついたやつだ。
白石がそれに気づいて、眉を寄せた。
「……怪我してます。消毒しますね」
「いい。後で——」
「後で悪化したら困ります」
白石は迷いなく消毒液を取り、傷口を洗ってからガーゼを当てた。手際がいい。プロだ。
その時、白石の指先が一瞬止まった。
「……あなた、痛がらないんですね」
「痛みは情報だ。必要以上には払わない」
「……変な人」
白石が、少しだけ呆れたように笑う。
悪くない。笑える余裕があるなら、生存確率は上がる。
「……あなた、さっきのゲートから出てきた人ですよね」
白石が、ようやく本題を切り出した。
当然だ。
俺は頷くだけに留める。
「中は……洞窟みたいな?」
「初期ダンジョンだ。今は説明してる時間がない。大事なのは一つ」
俺は白石の目を見た。
「“システム”が見えてることは、誰にも言うな」
「……え?」
「言った瞬間、利用される。回復役は特にだ。守られるか、囲われるか、奪われる」
白石の表情が強張った。
彼女は賢い。現場で人間の醜さを見てきた目だ。理解が早い。
そのタイミングで、白石の視線が宙を追った。
「……また、文字が……」
来たな。
俺は椅子を引いて、彼女の隣に立つ。
「落ち着け。スキル選択が出るはずだ。回復系が見えたら取れ。迷うな」
白石は小さく息を吸い、頷いた。
「……『スキルを選択してください』……」
彼女の指が震える。
前世で、ここで選択をミスって死んだ人間を何百人も見た。今の俺は、その“損失”を許容しない。
「読み上げろ」
「えっと……《応急処置》と、《小治癒》と……《毒耐性》」
当たりだ。
「《小治癒》だ」
「……はい」
白石が選択した瞬間、彼女の肩から力が抜けた。
「……温かい……手が……」
白石は自分の掌を見つめ、呆然と呟く。
医療職にとって、“治す”という感覚が変わる。現代の医療は、手順と機材だ。だが、回復スキルは直感に近い。
俺は自分の手の甲の傷を差し出した。
「試せ。小さい傷だ」
「え……でも——」
「今のうちに慣れろ。現場で初めて使うと手が止まる」
白石は頷き、掌をそっと傷に当てた。
熱が走る。じんわりと、皮膚が塞がっていく感覚。
白石が目を丸くする。
「……本当に、治ってる」
「それが武器だ。だから隠せ」
俺は一歩引き、言った。
「今からやることは二つ。ひとつ、君は俺と動く」
「え……?」
「もうひとつ、君は今日一日、絶対に死なない」
白石が息を呑む。
俺は続けた。
「報酬は出す。現金。魔石の取り分も渡す。代わりに——裏切るな。情報を漏らすな。勝手に英雄になろうとするな」
白石は少しだけ笑った。
「……英雄になれるほど、器用じゃないです。私は、助けられる人を助けたいだけで」
その“だけ”が、強い。
俺は頷いた。
「それで十分だ」
◇
白石が落ち着いたところで、俺は自分の視界を開く。
【ゲート管理】
権限画面は、この
俺はまず、侵入者検知を有効化する。
【侵入者検知:ON】
【通知:優先対象を設定しますか?】
→【はい】
迷う理由はない。
【優先対象:黒崎 恒一】
設定した瞬間、赤い点がひとつ、画面の隅に灯った。
黒崎が、ゲート周辺にいる。まだ帰っていない。
そして——次の表示。
【入場待機:23名】
【適合判定:実行中】
俺は一覧をスクロールする。
名前、年齢、適合の有無。思ったより露骨だ。システムは個人情報の概念がない。
そこに、見覚えのある名前があった。
【黒崎 恒一 適合:YES】
……は?
一瞬、思考が止まる。
前世では、黒崎は覚醒できなかった。だからこそ、暴力で奪う側に回った。だが今、システムは“適合”と出している。
俺のせいだ。
初回のゲートを押さえ、国土防衛を成功させ、流れを変えた。バタフライエフェクト。台本が、書き換わっている。
画面の端で、さらに赤い通知が点滅した。
【称号:《報復者》:条件達成】
【権限:《報復》が解放されました】
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
白石が不安そうに俺を見上げる。
「……何か、まずいことですか?」
「いや」
まずいのは、“相手”の方だ。
俺は笑わないまま、答えた。
「仕事が増えただけだ」
そして、俺は権限画面の《報復》に指を伸ばした。
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