第3話 驕りが招いた災い
じわっと眼球に痛みが走る。ジワジワと涙が高速で生成されていき、視界はぼやけてなにを見ているのかも知らない世界で、頭からゴンと床に突き倒される感覚だけが残った。
まだ痛みはなく、衝撃だけを体は感じ取った。服の胸元をグッと掴まれ押し付けられているような圧迫感と、髪を鷲掴みにされた頭皮がじりじりと悲鳴をあげる。
プツンプツンと何本か抜けたような音も、ASMRを聞いているかのように綺麗に耳に響く。
「お前みたいなグズは、俺みたいになったところでナメクジみたいな結果しか出せないんだよ。馬鹿でアホで無力で、そんなお前みたいな人間は恵まれた人間を羨んでるよな。どうせアイツの実力じゃないとか、家のおかげとか。でもお前が俺になったところで、くだらない人生を生きるだけだろ。勉強できる、運動できる、そんなの努力すりゃ誰だってできるんだよマヌケが。その事実から逃げて才能がなんだとほざいているから、お前は無職で職の一つも持てずに養ってもらってるんだろうが」
人呼吸おくと彼は、また私をなじってきた。
「仕事辞めたあたりから俺のことを馬鹿にしてたよな、お前は。自分みたいなグズに金払う男を蔑んでいたよな。俺みたいな恵まれた人間を尻に敷けて嬉しかっただろう。自分は何にもできない馬鹿な人間のくせに。魅力の一つもないくせによ。お前が就職できなかったのは、高校で必死に仕事探さなかったからだろ、十九でもフリーター続けて、二十でもフリーター続けてさっさと動き出していればこんな売れ残りにならなかったのに。それは全部お前が恵まれてなかったわけじゃなく、無努力で怠惰だからだよ。金も職も女も手に入んないのはお前の努力不足だからだ」
鷲掴みにされた髪がパッと解放される。頭からジーンとした痛みが今になって響いてきた。やっと痛みの引いてきた瞳で世界を見ようとするも、どうにも滲んでよく分からない。
ただあの透明な液体は酒だという事実だけが、頭にポツリと残されていた。
「働く、働くから、ごめんなさい」
ぼんやりとした思考とは裏腹に口はよく動くもので、思考するより早く最適な言葉が口から滑り出た。
彼はなにを思ったのか、私の服を胸元までビッと上げるとその手で体を弄ってきた。私は必死に抵抗しようとわけもわからぬ視界のままメチャクチャに手を動かした。
「ここまでひっついてきたのは、どうせ俺に虐められるならいいって思ってたからだろ。だったらお望み通りしてやるよ」
「やだ、やだ」
雅成の体らしきものを叩いたりしてみるも、反応は薄い。ここまで彼との体格差について言及してこなかったけれど、彼はもちろん上背がある。
こっちは女性の平均身長よりやや高いくらいだ。どう見たって私の方が不利なのだ。
私はどうにか彼の腕を見つけて最後の抵抗を果たした。
彼の手がビクッと引っ込んでいくのがわかる。彼の体の一部、多分腕を攻撃することに成功したのだろう。彼は私の体に馬乗りになるのをやめた。
私はどうにか逃げようと、震える手で体を起こそうとすると、彼はいつの間にか私の後ろに回ったらしく、襟元をガシッと掴むとどこかに引っ張っていった。
襟がしまっている服を着ていたせいで、息が苦しくて仕方がなく、必死に襟元に指を入れ気道を確保した。その間に彼のお望みの場所に到着したらしい。湿った床の感触としっとりと生暖かい空気でここが風呂場だということはわかった。
息を吐くまもなく、今度は頭を鷲掴みにされる。風呂、水、暴力の三点セットで今から起こることを予想できた。そのまま浴槽にためられた水面が徐々に近づいてくるのが見えた。
「あっ」
鼻がズーンと痛む。水を吸い込んだからで、ぶくぶくと泡が上がっていき、呼吸ができず、変に暴れたせいで腕がにジーンと鋭い痛みが走っていく。あぁ風呂ってこんな味がするんだ。あっあっあぁ。
ザバッ。
ザバッてなんだろう。
ピンポーン。ピンポーン。
あぁ、宅配かな、いや何にも頼んでないや。
ポタポタと雫が滴る音と排水溝にチョロチョロ流れていく音。大袈裟にむせ返るようなゲボゲボ言っている音。
「あ、あの、あの、あぁ、ちょっとねなんか争うっていうか、喧嘩みたいな音がしたもんだから、大丈夫かしらって思ったんだけど、どうかしら」
三十代いや四十代の女性の声か。よく来れたな。警察を呼んだらいいのに。なんて冷静に突っ込みながらもまだゲボゲボうるさい音が聞こえる。
「あぁちょっとゴキブリが出てしまいまして、連れと対峙しようとしていたんですけれども、どうにも飛んだ逃げたと騒ぐもので、でそんなことしてる合間に浴槽に滑って今ゲボゲボ言ってるわけで、騒がしくしてすみません」
これは雅成の声。
「あらそうなの?うちに殺虫剤あるからどうぞ使って頂戴。今持ってくるから」
そんなの信じる馬鹿がいるのか。
「いやいや大丈夫ですよ。ご迷惑をおかけしました」
「いいのよ。ちょっと待ってて、いつも静かなのに今日どうしちゃったんだろうって思って来ちゃったから、こっちもそのお詫びよ。あっお連れさん大丈夫そう?すごい咳き込んでるし」
あっ連れって私のことか。
その瞬間に体の感覚のすべてが戻ってきた。ゲボゲボとうるさく咳き込んでいるのは私だった。鼻の奥がズーンと痛み、吐き気がぐっと込み上げてくる。今私は洗い場に寝っ転がっているのか。白いタイルを横目に頭がぐわんぐわんと痛んだ。
脇腹あたりもジンジンしているのは、水面から逃れて自重で自重で叩きつけられたからか。
胃の小刻みの痙攣と収縮運動から、嘔吐は不可避であることを悟った。嘔吐の途中は何年振りに吐くんだろうとか、馬鹿らしいことを考えていた。
世間話も済んで戻ってきたであろう雅成に体をどうにか起こされて、いつの間にか私は洗濯機にもたれかかっていた。
その時の私は、記憶があやふやになっていて雅成の話の通り自分はゴキブリにビビって浴槽で溺れそうになったのかなんても思っていた。濡れてしまった服を雅成は脱がせようとしたが私はなんとか抵抗した。
抵抗しなければいけない理由も一向に分からなかったのだけれど、服に伸ばされる彼の手を見てどうにか阻止しなければいけないという命令が脳から発せられたから。
彼は諦めてどこかにいき、ふんわりと柔軟剤香るバスタオルで私を包むとそのまま寝室に向かった。もちろんお姫様抱っこという夢の展開ではなく、拉致されるようにずるずると。
敷布団の上にドサっと乗せられ、彼は何かを言っていたような気がするけど覚えていない。
めっきり秋の季節がやってきたからか、濡れた服でいるのは震えるほど寒かった。私は彼の去った部屋で、震えながら服を着替えた。バスタオルで体を拭くのに手間取り、脱ぐのに手間取り、着るのに手間取った。
正確な時間は分からないけれど、着替え一つに三十分以上かかった気がする。
びっしょりと濡れた髪をバスタオルでくるくると震える手で巻き、羽毛布団としっとりと濡れてしまった敷布団に挟まれながらいつまでも震えていた。口の中は酸っぱい胃液がいつまでも残っていて、鼻はズーンと痛んだ。
でもそうなったかが一向に分からなかった。
後になって考えると、一時的な記憶喪失的なものだったんじゃないかと私は思っている。いや、それ以外に説明はつかないのだけれど。
翌日は案の定高熱を出し、私は雅成に世話をしてもらった。
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