第2話 暴力の目覚め

「間抜けな顔」


「えっじゃあ、報告って?……家賃滞納とか?言ってくれれば僕が払っておいたのに」


 私の言葉にツボったのか彼はしばらく腹を抱えて笑っていた。酒が入っていることもあって、当たり前のことが余計に面白く感じたのだろう。私は真剣に明日の生活を心配していたのに。


「違う、そうじゃない。でも俺たちにとってもっと大切で重要なことだよ」


 ひとしきり笑い転げた後、彼は覚悟を決めたようだった。


「落ち着いて聞いて欲しいんだけれど、俺、結婚することにした」


 なんとなく合点が言ったような、それでいて何だか寂しいような悲しいような、でも嬉しいような感覚も覚えて、私はなんの反応も示すことがなかった。


「ごめん。でも君と別れるとか、そういうわけじゃない。そういうのを全部合わせて色々話し合ってきたんだ。妥協しないように、決めてきたつもり。今までの人生もこれからのことも。俺はどっちも取るよ」


 言いたいことがあり過ぎるが故に、言葉にならなかった。


「僕はこれからも生活を支えていくつもりだし、そこに関して何か心配する必要はないし、結婚してからもこっちには帰ってくるってことも話をつけてあるし、許してくれているから。だからようが心配する必要はどこにもない。結婚したってなにも変わりはしない」


 まるで自分自身に言い聞かせるように、彼は一言一言語気を強めて言い放った。それが見捨てないで、離れていかないで、と言っているように見えて私は彼から離れるという選択をその時点で放棄していた。


 私は心が強い人間じゃない。だからこそ彼が本当になにを伝えたいのか、なにを守りたいかがひしひしと伝わってくるのだった。


 心配そうに、それを隠すかのように高圧的に目を光らせて若干睨みつけるように私を見ていた。私は心の底でポツリと、もし出ていくなんて言ったら殴られそうだな、なんて思った。


 ぐっと力強く握られた拳が目に入ったからだろうか。


 雅成はかっこいいし、運動もそれなりにできて、勉強面ではかなり優秀で対人関係に問題も抱えておらず、実家が太い。というより金持ちだ。


 完全そうに見える彼は、実のところ私と同じく心の弱い人間なのではないかと、この頃になって気がついたのだった。


 この頃から私たちの関係はどうにもおかしくなり、多くの間違いと選択ミスを連続させ、自ら修羅の道に足を踏み入れたのだった。私はこの時点で、雅成の暴力性に気がついていたのかも知れない。


 目を背けていただけで。


 それから彼は準備を進め、私は変わらず彼との日常を送り。約束通り彼は二十二歳で結婚した。


 私は相手の女性に会ってはいないし、嫉妬とか恨みとか復讐とかいう感情に駆られることはなく、ただ彼におめでとうと伝えた。そもそも私は彼から何かの称号が欲しいと思ったことも、対等だとも思ったことがなかったからだろうか。


 二番目でも三番目でも四番目だっていい。でもそれでも私と世間話をするくらいの時間があれば、私はどうだってよかった。そういう意味で、私は彼を大切に思っていた。


 男性としてではなく、一人の人間として。私の中で彼は親のようで親友のようで兄弟のような立ち位置にいたと知ったのも、そのくらいだったか。


 何気に自分がゲイと呼ばれるマイノリティを持っているんじゃないかと、それに若干誇りのようなものを持っていたのだけれど、所詮はただの一般人だったのだ。若さというのは恐ろしい。




 結婚、就職、と雅成がライフステージを駆け上がる中で、私もそろそろ就職したいと考えていた。


 しかし現実はそう甘くはなかった。どれだけ挑戦しようともお祈りメールしか届かない様子に、当たり前かと納得しながら徐々に卑屈になっていくのが自分でも分かる。


 私はたしかに焦っていた。早く雅成から自立したかった。フリーターでも生きてはいける。仕事は嫌いだけれど、生きるには働くしかない。彼と同じ目線に立って、対等な関係を築きたい思いが強かったからだろう。私は本当に酷い性格になってしまったのは。


 バイト先では社員にもう少し人生を考えないととお説教されるのに、嫌気がさしたからかもしれない。でも思うように現実は変わらなかった。一年ほど無駄な抵抗を続けて、私はポッキリ心が折れてしまった。


 その頃雅成には子供ができたそうだ。執着する割にはやることをやっている男。手を伸ばしても届かない男。私は就職も、フリーターであることも辞めた。無職に成り下がった。もうどうやっても手の届かないところに彼が行ってしまった気がしたから。


 私は父親になろう男に、自分のつらさをこれでもかと言うほど吐き出しながら養ってもらうことに決めた。生活を保証するとは聞かされていたものの、実際に援助してもらったのは年間を通して数万円程度で。


 それも言ってしまえば私が彼に頼んだものではなく、彼の気まぐれであり優しさめいたものであり、フリーター時代も経済的な自立を実現できていたはずだった。


 それ以上に手を伸ばしたのがいけなかった。これが私の一つ目の過ちだろう。プライドなんて捨てて仕舞えばよかった。いつまでも社会的弱者であり続ければよかった。


 今ではそのすべてをこの手からはたき落としていった。


 当時は雅成をなにより憎みもした。なぜこんなにも天から恵まれた男がいるのか。金も顔も女もすべてを手に入れている男が、なに一つ恵まれない私に施すのは当然のことだと蔑んでみることもあった。


 彼を哀れな道家のように思う瞬間もあり、とにかく私は彼を下に見なければ惨めで惨めでとても生きてはいけなかったのだ。


 でもそんな時間も長くは続きはしなかった。



******



「働く気はないの」


 彼は酒の入ったグラスを左右に軽く振りながらその揺れる水面をじっくりと眺めていた。ただの世間話をしようと言う雰囲気ではない。なぜ働こうとしないのか釘を刺しにきたのだろう。


 雅成は結婚後も変わらずに週に一、二回はここに訪れては酒を飲んだり世間話をしたり、近情を聞いてきたりしていた。


「働く気はあります」


「もう仕事を辞めてから半年も経つね」


 私の浅はかな言葉を見抜いたかのように、彼は静かにそう言った。見れば彼のグラスを持つ手が白んでいるのが見えた。彼は余裕とゆとりを持ちながらも今、たしかに怒っている。でもこんな時まで品を保とうとする姿に、私は苛立ちを覚えた。


 どうせだったらここまで落ちてくればいい。そんな愚かなことも考えた。


 暴言を吐けばいい、苛立ちを全面に出してやればいいのに嫌味ったらしい男だなとも思った。


 私はその頃には彼の暴力性の予感をすっかり忘れていて、危機感の一つもありはしなかった。


「俺は君のつらさも、苦労も少しばかりは理解しているつもりでいるし、急かそうなんてことはしないんだけれども。いつまでもこんな生活が続けられると思ってはいけないよ」


 こちらも見ずにそっぽをむく偉そうな姿と、羞恥心と少しばかりの驕りもあってか。あるいは私の方が完全に上であると勘違いした私は、ムクムクと湧き上がる怒りに身を委ねてしまった。


「そんなこと言ったって、僕のつらさなんて、あなたはなにも理解していないでしょう。ただの傍観者ですよ、あなたは」


 吐き捨てるように言い放った。彼に反抗的になったのは何年振りのことだろう。


「君も変わったね」


 彼は以前そっぽを向いたままだった。しかし彼の膝に置かれた拳には青い筋が浮かんでいた。それが彼の最後の警告だったんだと思う。


「変わったって、裕福なあなたになにが分かると言うんですか。あなたが理解しているって言うのは、多分一通りも正しくない、あなたが勝手に見てそう感じて、私の苦しみも苦労もなに一つ理解していませんよ。だいたいあなたは、顔も頭も良くて、運動もできて仕事も家庭も結婚相手にさえ苦労しないような人間であるって言うのに、私のような持たざる人間のなにを理解しているって言うんですか?私はあなたが易々と超えてきたすべてのものを、血の滲むような行動の結果やっと手に入れられるかも知らない代物だと言うのに、恵まれた側の人間は知らないでしょうね。そんな想像の一つもしないんでしょうね」


 思いのままに言ってやった。内心は雅成がオロつけば良いのだとすら思っていた。ごめんねなんて一言でも言えば、それで許してあげていいんだぞ、とも本気で考えていたのだ。


 よしそろそろかと膝小僧に向けた視線を彼の方向に向けた瞬間、眼球に無色透明な液体がこちらに飛びかかってくるのが見えた。

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