第4話 変な仲直り
記憶は三日も経てば戻ってきて、私は死に物狂いで職を探した。電話が大の苦手であった私であるけれど、一日に十件も電話をしたのははじめてだった。どうにか面接の日程を取り付けては、くだらないチラシの裏にでもメモしていき。下手な鉄砲でも数打てば当たると信じていた。
私はそのことを詳細に記しては、その旨を雅成に送った。
あの日雅成が持っていたグラスは黙って捨ててしまった。あれが目に映るたびに心臓がバクバクと暴れ回って、まともに生活を送れなくなるから。
努力の甲斐あってか、二週間も経てば職を手に入れ周五で八時間働くことになった。月に十五、六万は入るだろう。税金を抜いたらもっと少なくなるのかはさておき、私はその通りに彼に伝えた。
すると彼は、二人で話したいと言ってきた。私は会いたくないというと言うと彼は電話でもいいからと言われて、私は折れるしかなかった。その時間になるまでそわそわと彼を待った。
震え出す携帯を手に取る。
「もしもし、聞こえてる?」
「はい、聞こえてます」
「仕事はどう?続けられそう?」
たわいもない普通の会話。あの時ぶりに聞く声。不思議なことに恐怖の一つも湧いてこなかった。
私はあの時の暴力と、雅成をリンク出来ていないからだろう。幸いにもあの時酒によって目は潰され、暴言しか吐かれていなかったのが功を成したのだろう。彼の性格からしてすでに反省しているはずだろうし、もう心配はいらないんじゃないか。
私は自然に彼を受け入れる体制を整えていた。
「あぁ、いや全然大丈夫です。あの、先日は、というより今年は一年を通して申し訳ありませんでした。赤ん坊でもないのに養ってもらって。就活が上手くいかなくて卑屈になっていたんだと思います。いつもだったらすごいなって思うことも、全部あなただけ恵まれていていいなって、比較していました。こんな僕によくしてくれてるなんて馬鹿な人だとも思っていたし、見下してもいたから、雅成が怒ったのは当然です」
しばらくの沈黙。彼は言葉を選びかねているようだった。どんな意味で私がこの言葉の羅列を並べ、本心では何を思っているのか推し量ろうとしているのか。あるいは彼自身で結論を出せていないのか。
「少なくとも君が先に謝ることじゃないよ。実際に僕を怒らせたのが君だとしても、暴力を振るったのは僕だ。その事実は変わらない。ごめん」
「そうですか?怒らせる人より怒った人の方が悪いなんて思いませんけど。ただあなたは暴力を振るうべきではなかったと思います」
大きなため息に、ガサガサと服の擦れる音。雑音から天でも仰いでいるのやら。
「ごめん。そうだ、ごめん。会って話したい。こんな電子音じゃ何も伝わりはしないよ。実際他人の声らしいし」
「いいですよ」
「本当に?怖くない?」
彼は二十分もしないで訪れた。やっぱり私は彼を目の前にしても恐怖は湧かなかった。頭のネジがぶっ飛んだのか、そもそも人間ってのはそんなものなのか。彼は私をギュッと抱きしめて、繰り返しごめんと呟いていた。私はもう怖くなかった。
「ジュース、こんな気の利いたものを買ってこられるなんて、ちょっとは成長ですね」
「酒は嫌かと思って、あんなことなくても元から嫌いだろ」
「いつもお茶を飲ませて平気な顔をしていたのは誰ですか?」
「ねだらないからだな」
たわいもない雑談の後、私は紙コップにトポトポと炭酸飲料を注いだ。シュワワワと音を立てて気泡が破裂していく。二つのコップをカサリと擦り、コクリと一口飲み込んだ。これまでより、今の方がずっとお互いを知れているような、そんな気がした。
「これから言うのは全部言い訳。でもその言い訳を言いたいからここに来た。いいかい?」
「いやいいです。言い訳は要りません」
私は彼の申し出を丁重に断った。
「謝罪っていうのは詰まるところ、謝罪する側のためにあります。僕はあなたのどんな弁明も受け入れることはないし、あなたもそれを抱えたままでいてください」
一瞬また殴られるんじゃないかと、彼の両手の所在を探したが力は込められていなかった。彼はチビチビと酒を飲むようにジュースを傾けると「そうだな、その通りだ」と渇いた笑いと共に言った。
彼の知られざる暴力性の源を知りたくなかったわけじゃない。背景に一ミリの興味も抱かなかったわけじゃない。でも私が少しでも彼に同情して仕舞えば、もう彼から逃れられなくなってしまうんじゃないか。
彼の暴力すら受け入れるようになってしまうのではないか、私は怖かった。
この時私は二十四。二十四という数字は社会的に見たら立派な大人であるものの。私には今でも理解できないことが多すぎた。
私は私のこともよく分からない。
その後は変な仲直りをして、私は真っ当に働くようになった。汗水垂らしてお金をもらう。ただ毎日を活き活きと生きる。
でもそれだけで終わらないのが人生で、これからが二十五回目の冬に繋がっていくのだ。
思うに私たちはちっともお互いのことを知らないようだ。十七で出会って七年も共に過ごしてきて私は一度も彼の暴力の片鱗に気がつきはしなかった。
ドメスティックバイオレンス。家庭内で行われる暴力は、人の見る目がないわけではなく突然芽吹くものなのではなかろうか。人は暴力的になるきっかけを与えればどれだけ残酷なことも実行する。
私は彼の暴力を軽く受け取った。もうないだろうとどこかで確信していた。いや私が怒らせなければ水に沈められることもないのだろうと、受け入れていた。
私は自分の力ではどうしようもできないことがあると知っている。どうしようもできずに誰かに殴られることも、罵られることも知っている。でも雅成は私をそこから救い出してくれた。
救われた先に地獄があった時の対処法なんて私は知らないから。天国に地獄があった時、人はどうしたらいいのだろうか。
私は彼の奥方の頬に大きな青あざがあるのを見るまで、その胸でぐっすりと眠る赤子を見るまで、私は彼の性質をまともに理解しようとも解決しようとも思っていなかった。
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