鎖は左薬指に
日帳
雅成という男
第1話 彼の帰りを想う
私は今年二十五になる。
二十五回目の冬を越え、一つ気がついたことがある。
どうやら時間はすべてを解決してはくれないようだ。
春を越す分だけどうしようもないものが一つ増えていき、方程式では解けきれないほどの難題がいくつも傍らに転がっていく。チリチリと闇が這い寄る中、胸内が曇っていくのだけれど憂鬱はさほどない。
時間はすべてを解決してくれないが、時間は人を洗練させていくようだ。数年前とは比にならない困難を抱えているが、呼吸もできない不安はここにない。
ただ依然として、私はそこから抜け出す術をこれっぽっちも持ってはいないのだけれど。
失敗したのならもう一度やり直せばいい。先人は名言を多く残してくれるが、私には一向に役に立たない。そもそも時間は巻き戻らないのだから軌道修正だろうに。
私は、
ただ性格はやや捻くれていて、曲がったところもある男だった。
しかし彼には人の心を掴んで放さない孤独があった。いつも何処かで「自分の傷は誰にも分かりやしない」と見下しているような、寂しさのような、子犬がキューンと鳴き出しそうな姿をしていた。
そんな彼を見るたびに、私も彼に何かしてあげないといけない気持ちでいっぱいになり、彼はそんな私をいつも笑い飛ばしていた。
すべての始まりは彼の結婚だろうか。まずはその時の話をしよう。
******
「今日報告があるから、まぁそのつもりで」
気のない口調で、ネクタイを締め上げながら彼は言った。今日は一段と決めていることから、インターンシップか会社の説明会などフォーマルな活動をする予定なのがありありと伝わってくる。
自信満々の様子から、もしや面接か?いや内定が出るまでにはまだ時間がかかるはずだけれど、雅成の優秀さならこんな時期に内々定が出たって当たり前か。なんて花畑を頭に咲かせながら、私は茶化しながら言った。
「報告ってなんですか?良いやつですか?悪いやつですか?」
当然いいものに決まっているんだけれど、私は嬉しくなってしまって雅成もそれに気づいたようだ。ニヤリとイタズラっぽく微笑む。
「さぁーどうかな、どっちだと思う?」
「きっといい報告でしょう」
その一瞬、本当に一瞬だけ空気が冷めたような、彼の感情から冷え冷えした雰囲気を感じた気もしたのだが、私は浮かれてそんなの気にもしなかった。雅成は時々そうやって、何かを考え込む瞬間はよくあったし、別に機嫌が悪くなったわけでもないから。
彼はそこらの飲んだくれとは話しが違う、別格の男だという確信が私にはあった。
背の低いテーブルに置かれたコーヒーの残りをグビッと飲むと、「じゃあ言ってくる」と彼は気のない言葉でリビングを後にする。
「気をつけてくださいね」
「えー、君に?」
雅成は軽く振り返っていやんというポーズをしていた。こういうくだらないことをたまにする。
雅成は大学生で、私はフリーター。雅成とは同じ高校に通っていて、私は就職組だったけど、色々と悪いものが重なってまともに就職できなかったのだ。でも今はそれが嬉しい。だって彼と同棲できる理由の一つは、私が寮付きの会社に就職できなかったから。
パタンとドアが閉まった後、私も続けるように身支度を済ませて家を出た。
時刻は午後七時、いつもより若干仕事が長引いた。雅成が帰ってくるまであと一、二時間はあるはずなので、私はご馳走を用意するためにスーパーに寄った。
贅沢はできないけれど、ホットケーキとホイップクリームで簡素なケーキも作り、できるだけ雅成の好きな料理を用意したつもりだった。
時刻は九時前、大体ここら辺でいつも雅成は帰ってくる。私は彼にどんな就職祝いの言葉を贈ろうか、思考に思考を巡らして一人微笑んだりしていた。私には就職を祝ってくれる人もいなかったわけで、というより就職してないからなんだけれど、誰かを祝えるのがひたすらに嬉しかった。
誰かの幸せを祈れることは、尊いことだ。
それから数時間が経った。時刻は十二時直前で、雅成からの連絡は一通もなかった。雅成には友人が多いけれど、十時を過ぎる時はいつも連絡を入れてくれていた。
交通事故、喧嘩、誘拐、殺人鬼、色々思考が巡り、唇が白くなるほど私は彼が帰宅しない事実に怯えていた。
電話も繋がらない。メッセージに既読はつかない。時計の針が一つ進むたびに、嫌な予感が頭に溢れて返ってきて、そのもしかしたらを信じている自分が恐ろしくて、今すぐにでもこの一室から駆け出したい衝動に駆られる。
道ゆく人に彼の名を聞いて周り、彼の行方を探しに行きたい。でもそんなんことをしたら、本当に彼がそんな目に遭ってしまいそうで、それが怖くて一人薄暗いリビングに座り込んでいた。いや正確には一ミリたりとも体を動かしてはならないような、そんな気がして。
きっと大丈夫。きっと大丈夫。
カチャリと鍵を開く音が、リビングに響く。私はそこでようやっと現実に引き戻された。すでに時計の針は二時と三時の中間を指し示していた。
「ただいま」
気の抜けた愛しい人の声に連れられて、私は玄関に駆け出した。くたびれたスーツに酒臭さを漂わせる男は、たしかに雅成だった。
互いに数分言葉を無くしていた。彼はしきりにネクタイを触っては、落ち着きもなく視線をチラチラと動かしていた。
「ごめんね」
私はその言葉を聞いてホッと涙が溢れてきた。そのごめんが帰りが遅くなってごめんなのか、酒臭くてごめんなのか、内定がもらえなくてごめんなのか、あるいはそのすべてなのかも分からない。
泣いている私の頭をポンと彼の手が乗せられた。多分撫でられている。
「あのね。あぁ、うん、そうだ、今日は話したいことがあるって言っただろう。それの話をしよう」
しばらくして私が落ち着きも取り戻す間。彼は酒臭さを誤魔化すためか着替えを済ませ気持ち程度にうがいをしていた。私の隣に腰を据える。
「泣き止んだ」
「別にいいでしょう」
「ごめんね」
「勝手に心配していたのはこっちですから。でも連絡くらいは返してくれてもいいんじゃないかと思いました。生きてるか知りたかっただけなので」
彼はなんとも言えない表情を浮かべていた。私の中では報告とは内定であると確信していただけあって、怒りも不安も覚えなかった。ただ「内定がもらえなかった」その言葉を聞くためだけに私はここに座っているんだろうから。
そんな気さえしていた。ただそれが大きな誤算だと気づけなかったのは、私の阿呆なところとも言えるだろう。
「で、話したいことって仕事の話だったりしますか。だったら時間は有り余っていますし、そんなに落ち込むことではないと思いますよ。実際僕も就職はうまくいきませんでしたから」
「んん、いや、うん、まぁそうなんだけどさ。別に仕事じゃ困っちゃいないよ」
「えっ?」
そこではじめて雅成は軽い笑みをこぼした。
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