給食の時間

@MostGdanski2

給食の時間

山田花子は、チャイムの一音前に、腕時計を見た。

十一時五十分。

そろそろだ、と思う。

廊下の向こうから、給食ワゴンの金属が鳴る音がした。

花子は、職員室の自分の机に置いたままのトレーを見ないようにして、立ち上がった。

今日は、二年二組に行く日だった。


「良かったら、給食の時間、クラスに来て生徒と一緒に食べてあげて」


数日前、担任の佐藤がそう言った。

善意なのは分かっている。

断る理由も、なかった。

どう座るか、は、誰も教えてくれなかった。


教室に入ると、すでに机はばらばらに動いていた。

四つ、五つ、六つ。

小さな島が、いくつもできている。


花子は、教室の前方隅を見る。

担任用の大きな机。

今日は、空いている。佐藤は会議で校長室だ。

使っていい、とは言われていない。

花子は、視線を外した。


まずは、手ぶら。

これは、花子の中では決まっている手順だった。

給食を持って入ってしまうと、逃げ道がなくなる。

もし、どの島にも入れなかったら。

そのとき、給食を手に持ったまま職員室へ引き返す自分を、花子は想像してしまう。

教室の生徒全員の視線。

職員室の先生たちの、何気ない一瞥。

それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。

だから、まずは空身で行く。


「今日のスープ、なんだっけ」

花子は、島のひとつに近づきながら、できるだけ軽く声を出した。

声は、思ったより普通に出た。

「コーンポタージュです」


答えたのは、前の席の美樹だった。

明るくて、誰とでも話せる子だ。

「へえ、いいね」

それだけ言って、花子は次の島へ行く。

長く立ち止まらない。

入り込もうとしすぎない。

これは、臆病さというより、調整だった。


不登校の生徒の席が、ぽつんと空いている。

使っていい席。

でも、それだけでは足りない。

「先生、こっち来る?」


誰かが言ってくれたらいい。

でも、誰も言わない。

言わないのが普通だ。

生徒たちは、悪くない。

花子は、机の間を一周して、時計を見る。

もう二分、三分。

このままなら、撤退だ。


そのとき、美樹が、少しだけ身を乗り出した。

「山田先生、そこ空いてますよ」

一瞬、花子の思考が止まる。

今だ。

「いいの?」

「はい」

花子は、不登校の生徒の机を、静かにその島へ寄せた。

「じゃ、ちょっと取ってくるね」

そう言って、職員室へ向かう。


往復で、六分。

花子が戻ったとき、島の生徒たちはもう半分ほど食べ終えていた。

箸の動きが、少しだけ速い。

「遅くなってごめんね」

そう言って座ると、誰かが「大丈夫です」と言った。

声は、優しい。

花子は、急いで食べ始める。

味は、よく分からない。


そのときだった。

隣の島から、ひそひそ声が聞こえた。

「ねえ、今さ……」

「三組の聡太、来たらしいよ」

「え、ほんと?」

花子の手が、一瞬止まる。

来た――?

三組。

不登校の子がいるクラス。

久しぶり、という言葉が続いたのを、花子は聞き逃さなかった。

胸の奥が、すっと冷える。


もし。

もし、この教室だったら。

もし、今、自分が、あの席で食べているところを、見られたら。

花子の視線が、無意識に教室の入口へ向かう。

誰も、入ってこない。

でも、可能性はゼロじゃない。

不登校の子は、いつ来るか分からない。

時間割も、給食も、関係ない。


の子が、自分の机を見たら。

そこに、非常勤講師が座っていたら

「やっぱり、自分の居場所はない」

そう思わせてしまうかもしれない。


花子は、喉が詰まる感じをこらえて、箸を動かす。

早く食べるのは、失礼だ。

でも、長居もできない。

島の生徒たちは、すでに食べ終えかけている。

けれど、机はまだ動かさない。

本来なら、食べ終えた人が戻す。

花子は、まだ半分も残っている。

それが、余計に、重い。


「先生……」

箸を置いた美樹が、少しだけ声を落とした。

「私、もう食べ終わったんで……机、戻してもいいですか」

理由は、言わない。

言わなくても、花子には分かる。

このあと、友達と話したい。

遊びに行きたい。

休み時間は、短い。

それは、生徒として当然のことだ。

花子は、一瞬だけ迷ってから、うなずいた。

「うん。ありがとう。行っていいよ」

「すみません」

そう言って、美樹は自分の机を元の位置に戻す。

周りの机も、続いて動き始める。

音が、重なる。


気づけば、花子の前には、

不登校の生徒の机だけが残っている。

花子は、そこに一人で座り、食べ続けた。

誰かに罰を与えられているわけじゃない。

でも、構図だけは、知っている。

居残り給食。

あの、写真で見たような光景。

花子は、もう一度、入口を見る。

やはり、誰も来ない。

それでも、心臓は、少し速いままだった。


数分後、花子はトレーを持って立ち上がった。

まだ少し残っていたけれど、無理はしない。

職員室へ戻りながら、花子は思う。

これは、善意の問題じゃない。

努力の問題でもない。

配置と、手順と、想定の問題だ。

誰かが悪いわけではなく、

誰かが黙って傷つく構造だけが、そこにある。

花子は、そのことを、

生徒よりも、教員である自分が忘れてはいけないと思った。


その日以来、花子は給食の時間、職員室に残る日が増えた。

楽だからではない。

傷つかないためでもない。

無駄な緊張と、誰かへの余計な配慮を、減らすためだった。


花子は、元・場面緘黙だ。

けれど、今は話せる。

それでも、こういう場面では、

話せる/話せない、とは別の回路が動く。


・失敗したらどう見えるか

・誰の時間を奪うか

・どこに自分が収まるか

その計算が、無意識に走る。

これは、性格だ。

治すものではない。


翌日、職員室で、一人で給食を食べながら、花子は思う。

もし、「先生、今日はここで食べてください」

そう言ってもらえていたら。

もし、担任用の机を使っていいと、最初から決まっていたら。

きっと、全然違った。

花子は、トレーを片付けながら、小さく息を吐いた。

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