第9話 発覚と軟禁
玄関のドアを開けた瞬間、胃が縮み上がるような空気を感じた。
「……ただいま」
なるべく普段通りの声を意識したつもりだった。
けれど、靴を脱ぐ指先が震えている。
朱音との密会から一時間後。
私は「仕事道具を取りに戻る」というミッションのためだけに、魔窟へと足を踏み入れなければならなかった。
「おかえりなさい、沙耶ちゃん」
リビングから母が出てくる。
その顔は笑っていた。
いつもの、慈愛に満ちた笑顔だ。
けれど、今の私にはそれが能面のようにしか見えない。
この笑顔の下で、私を数億円の通帳として計算しているのだと思うと、寒気がした。
「遅かったわね。コンビニに行くだけって言ってたのに、一時間も」
「う、うん。ちょっと……外の空気が気持ちよくて、遠回りしちゃって」
「そう」
母が私に歩み寄る。
逃げたい衝動を必死に抑えて、私は立ち尽くす。
母は私の目の前で立ち止まり、スン、と鼻を鳴らした。
「……いい匂い」
母の目が、私の瞳を覗き込む。
爬虫類のような、瞬きのない目。
「沙耶ちゃん、こんな高い香水、持ってたかしら?」
心臓が跳ね上がった。
朱音だ。別れ際に抱きしめられた時、彼女の香水の香りが移ったのだ。
「ち、違うの。これは、すれ違った人が……」
「嘘よ」
母の声が低くなった。
「コンビニのレシート、見せて?」
「え……」
「買い物したんでしょう? 見せてちょうだい」
母の手が伸びてくる。
私のポケットを探ろうとする。
私が後ずさると、母の表情が一変した。
「まさか、あの子と会ってたの?」
空気が凍りついた。
「お母さん、見てたのよ。コンビニから出てきた沙耶ちゃんが、誰かと話してるのを。……あれ、朱音でしょう?」
見られていた。
母の執着心は、想像を絶する深さだったのだ。
私は恐怖で声が出ない。
「答えなさい! あの子と会ったのね!? 何を話したの!? まさか、家を出ようなんて考えてないわよね!?」
母の絶叫を聞きつけ、奥の書斎から父が出てきた。
「どうした、騒々しい」
「あなた! 沙耶ちゃんが、朱音と接触したみたいなの! 毒されたのよ、あの子に!」
父の目が鋭く光った。
彼は無言で私に近づくと、私のジーンズのポケットに強引に手を突っ込んだ。
抵抗する間もなく、カフェのレシートと、そしてスマホが抜き取られる。
「あ、返して……!」
「やはりな。カフェで一時間も話し込んでいたのか」
父はレシートを握りつぶし、私のスマホを冷ややかに見下ろした。
「沙耶、お前のためを思って言っているんだ。朱音は危険だ。お前を唆し、我々の家庭を壊そうとしている」
「違う! 朱音は……!」
「口答えをするな!!」
父の怒鳴り声に、私は萎縮する。
父はそのまま、私のスマホを自分のポケットにしまった。
「しばらく、外部との接触は禁止だ。スマホは預かる」
「そ、そんな……仕事の連絡が……」
「仕事? あんな遊び、もうやる必要はないだろう」
父は二階へと上がり、私の部屋へと入っていった。
嫌な予感がして、私も慌てて追いかける。
部屋に入ると、父は私の机の上にあったペンタブレットとノートパソコンの電源コードを引き抜いているところだった。
「やめて! それがないと私……」
「刺激が強すぎるんだ。お前はまだ病気なんだから、治療に専念しなさい」
父は私の商売道具を無造作に抱えると、部屋を出て行こうとした。
私はすがりつこうとしたが、後ろから母に羽交い絞めにされた。
「離して! 泥棒! 私の人生を返してよ!!」
私が叫んだ瞬間、パチン、と乾いた音がした。
母が私の頬を叩いたのだ。
頬が熱い。
母は、涙を流しながら私を見ていた。
「どうしてそんな酷いことを言うの……? ママは、沙耶ちゃんを守ってるだけなのに……」
完全に狂っている。
叩いたのは母なのに、まるで自分が被害者のように泣いている。
彼女の中では、本気で「娘を隔離治療している」つもりなのだ。
ガチャリ、と部屋のドアが外から閉められた。
鍵穴が回る音がする。
以前からつけられていた外鍵が、今、監禁のために使われた。
「開けて! 開けてよ!!」
ドアを叩くが、反応はない。
窓には転落防止の柵がある。
スマホもない。パソコンもない。
完全な密室。
静寂だけが残された部屋で、私は床に崩れ落ちた。
恐怖と絶望で震える中、朱音の言葉だけが頭の中でリフレインしていた。
『深夜、私が迎えに行く』
……本当に来てくれるの?
連絡する手段は、もう何もない。
日が暮れていく。
部屋が闇に包まれていく中で、私は膝を抱え、ただ妹の足音だけを待ち続けていた。
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