第10話 脱出計画


暗闇の中で、私は膝を抱えてうずくまっていた。


スマホも時計も奪われた部屋では、今が何時なのかも分からない。


階下からはもう物音はしなかった。

両親は眠ったのだろうか。

それとも、ドアの向こうで聞き耳を立てているのだろうか。


想像するだけで、吐き気がした。


――深夜、迎えに行く。


朱音のその言葉だけが、暗い海の底に垂らされた一本の光だった。


けれど、もし来なかったら?

もし、家の周りを父が見張っていたら?


悪い想像ばかりが膨らみ、涙が枯れるほど泣いた目は痛かった。


コン。


小さな、硬質な音がした。


私はビクリと顔を上げる。

音はドアからではない。窓の方からだ。


コン、コン。


風ではない。

明らかに、誰かの意思を持ったノックだ。


私は震える足で立ち上がり、カーテンの隙間から外を覗いた。


二階の窓の外。

そこにはあり得ない人影があった。


「……っ!」


朱音だ。


彼女は窓枠に手をかけ、ペンライトの小さな明かりを自分の顔に向けて合図していた。


私は慌てて窓の鍵を開け、サッシを引き上げる。

湿った夜風とともに、朱音の鋭い声が飛び込んできた。


「静かに。……脚立かけてるけど、足場悪いから気をつけて」


「あ、朱音……本当に、来てくれたの……?」


「当たり前でしょ。約束したもん」


朱音は黒いパーカーに動きやすいパンツ姿。

準備が良すぎる。まるで、こうなることを最初から想定していたかのように。


「さあ、来て。荷物は?」

「な、ないの。全部取り上げられちゃって……」

「チッ、あのクソ親……。まあいいや、身一つで十分。早く」


朱音が手を差し出す。


私はためらった。ここは二階だ。落ちたら怪我では済まない。


それに、この窓を越えれば、もう二度とこの家には戻れない。

三十年間、私を縛り、そして守ってきた揺り籠からの、完全な決別だ。


「お姉ちゃん!」


朱音の焦った声が響く。


「今逃げなきゃ、一生ここだよ! あの人たちの玩具で終わっていいの!?」


玩具。


脳裏に、優しく微笑む母の爬虫類のような目と、戸籍謄本の文字が浮かんだ。


嫌だ。


私は唇を噛み締め、窓枠に足をかけた。


「……行く。私を連れてって」


震える手を伸ばすと、朱音がガシッと強く握り返してくれた。


「信じて。私が絶対守るから」


その力強さに引かれるように、私は空中に身を乗り出した。


一歩、また一歩。


地面に足がついた瞬間、膝から力が抜けて座り込んだ。


「よし、急ごう」


朱音は私を立たせると、手早く梯子を縮めて脇に抱えた。

私たちは泥棒のように、中腰で庭を駆け抜けた。


門を出て、少し離れた路地に停めてあった黒い軽自動車の助手席に、私は押し込まれた。


朱音が運転席に乗り込み、静かにエンジンをかける。


車が走り出す。


窓の外を流れる景色の中に、見慣れた家の屋根が遠ざかっていく。

腐敗した家。私の牢獄。


それが闇に溶けて消えた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、私は声を上げて泣き出した。


「うああああ……っ!」


「よしよし、もう大丈夫。怖かったね」


朱音はハンドルを握りながら、優しい声で言った。


「もう誰も追いかけてこないよ。お姉ちゃんは自由になったの」


「あ、ありがとう……朱音、ありがとう……ッ」


「いいの。私たち、二人きりの姉妹だもん。助けるのは当然だよ」


車のライトが、伸びていく夜道を照らす。


私は助手席で体を小さく丸め、妹への感謝と信頼で胸をいっぱいにしていた。

私にはもう、世界に朱音しかいない。


横目で朱音を見る。


彼女は真剣な眼差しで前を見据え、口元に微かな笑みを浮かべていた。

それは「姉を救えた安堵」の笑みに見えた。


――その時の私には。


「……さてと」


朱音が独り言のように呟く。


「これでやっと、私の手元に来たね」


「え? 何か言った?」


「ううん。これから私の部屋に行くけど、狭いから我慢してねって言ったの」


「ううん、いいの。朱音といられるなら、どこでもいい」


私は涙を拭い、深くシートに体を沈めた。

エンジンの振動が心地よい子守唄のように響き、私は深い眠りへと落ちていった。


隣で妹が、どんな目をしていたのかも知らずに。

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2026年1月12日 22:00
2026年1月13日 22:00

優しい妹の飼育箱 ~毒親の檻から逃げ出した私は、より快適な牢獄で暮らす~ 品川太朗 @sinagawa

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