第8話 両親の思惑
カフェの冷房が、冷や汗で濡れた肌に張り付いて寒い。
私の目の前には、自分の名前が書かれた戸籍謄本。
頭の中で、パズルのピースが音を立てて嵌まっていく感覚があった。
けれど、それは完成させたくない、おぞましい絵だった。
「ねえ、お姉ちゃん。不思議に思ったことない?」
朱音は冷めた紅茶を一口飲み、静かに問いかけた。
「お姉ちゃんは真面目だし、絵の才能もある。それなのに、どうして五年間も『あと一歩』から先に進めなかったのか」
「それは……私が弱くて、ダメな人間だから……」
「違うよ」
朱音はきっぱりと否定した。
「進めなかったんじゃない。足を引っ張られてたの。全力でね」
朱音の瞳が、冷徹な光を帯びる。
「例えばさ、三年前。お姉ちゃんが初めて『通信制の学校でデザインを学びたい』って言った時のこと、覚えてる?」
覚えている。
勇気を振り絞って両親に相談した夜だ。
「あの日、お母さんなんて言った?」
「……『素敵な夢ね。でも、まだ時期尚早よ』って。『もし課題のプレッシャーでまた体調を崩したら、取り返しがつかないことになる』って泣かれて……」
「そう。そしてお父さんは『金ならいくらでもあるから、慌てて資格なんて取る必要はない』って言ったでしょ?」
その通りだった。
両親はいつだって「賛成」の顔をして、結論としては「現状維持」を求めた。
『オンラインカウンセリングを受けたい』と言った時は、『ネットの医者は信用できない、お母さんが話を聞いてあげるから』と止められた。
『散歩の距離を伸ばしたい』と言った時は、『最近、近所で不審者が出たらしいぞ』と父が脅した。
「全部、嘘だよ」
朱音は吐き捨てるように言った。
「お姉ちゃんが回復したら困るんだよ。もしお姉ちゃんが自信をつけて、外に出て、友達を作って、自分の頭で考え始めたら……『なんで勝手に結婚させられてるの?』って気づいちゃうかもしれない」
「……っ」
「だから、生かさず殺さず、飼い殺しにする必要があった。お姉ちゃんを無力な子供のままにしておくために、自尊心を削り続けて、依存させるように仕向けてたんだよ」
胃液がせり上がってきた。
口元を手で覆う。
あの日々の、温かい言葉の数々。
『無理しないで』
『そのままでいいのよ』
『ママが全部やってあげる』
それは救済の言葉ではなかった。
私の足を折って、歩けなくするための呪いの言葉だったのだ。
私は「守られていた」のではなく、「看守」に監視されていた囚人だった。
「あの人たちは、お姉ちゃんの人生なんてどうでもいいの。大事なのは、大河内家の遺産数億円。それが手に入るまで、お姉ちゃんという『器』を綺麗に保管しておきたいだけ」
朱音はテーブルの上で手を組み、哀れむように私を見た。
「お姉ちゃんは、両親にとって『愛娘』じゃない。高利回りの『金融商品』なんだよ」
ガタガタと、テーブルが揺れた。
私の震えが止まらないからだ。
怒り、悲しみ、恐怖。それらが混ざり合って、ドロドロとした吐き気に変わる。
信じていた。歪んでいても、愛情だと信じていた。
自分がダメだから、親に迷惑をかけていると信じていた。
でも、違った。
私がダメだったんじゃない。
私が立ち上がろうとするたびに、微笑みながらその足をハンマーで砕いていたのが、あの両親だったのだ。
「……許せない」
喉から、しぼり出すような声が出た。
「私、五年も……八年も……あの家で、ずっと自分を責めて……」
「うん。もう十分だよ。お姉ちゃんは頑張った」
朱音は席を立ち、私の隣に移動して肩を抱いた。
「もうあの家には戻らなくていい。私のマンションにおいで。すぐに荷物をまとめて……」
「でも!」
私はハッとして顔を上げた。
「仕事の道具……パソコンとか、描きかけのデータとか……全部あそこにあるの。あれがないと、私、仕事もできない」
「……あー、そっか。機材があるのか」
朱音は少し考え込み、そして真剣な顔で頷いた。
「分かった。じゃあ、一度だけ戻ろう。でも、絶対に普段通りにしてて。気づかれたら何をされるか分からないから」
「う、うん……」
「必要最低限のものだけ持って、深夜、私が迎えに行くまでの辛抱だからね」
朱音の言葉に、私は深く頷いた。
怖い。家に戻るのが死ぬほど怖い。
けれど、もうあの家は「我が家」ではなかった。
欲と嘘で塗り固められた、魔女の棲む家だ。
「大丈夫。私がついてる。絶対に助け出すから」
妹の力強い言葉だけが、今の私の唯一の命綱だった。
私は震える足で立ち上がった。
これが最後の帰宅だ。
そう心に誓って。
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