第7話 隠されていた結婚
カフェの喧騒が遠のいていくようだった。
テーブルの上に置かれた茶封筒。
朱音はそこから一枚の書類を取り出し、私の目の前に広げた。
「これ、お姉ちゃんの戸籍謄本だよ。裏ルートで取り寄せたの」
戸籍謄本。
そんなもの、人生で一度も見たことがない。
見方も分からない私が、朱音の指差す箇所を目で追う。
「ここ。身分事項の欄を見て」
【婚姻日:平成××年×月×日】
【配偶者氏名:大河内 巌(オオコウチ イワオ)】
……は?
思考が停止した。
意味が分からない。
漢字の羅列が、記号のようにしか見えない。
「こ、婚……印? え、誰……?」
「やっぱり、知らなかったんだね」
朱音は深く溜息をつき、信じられないものを見るような目で書類を見下ろした。
「お姉ちゃんはね、結婚してるの。もう五年も前に」
「結婚……私が? だって、私、ずっと家に……」
「そう、家にいたままでね。相手はこの大河内って人。私たちの遠い親戚で、資産家のお爺さんだよ。もう八十歳を超えてる」
頭がぐらりと揺れた。
八十歳? 資産家? 私が?
私の知らないところで、私の名前の隣に、知らない老人の名前が刻まれている。
「五年前、私が家を出てすぐのことだよ。お父さんたちが勝手に婚姻届を出したんだよ。お姉ちゃんのハンコを使って、代理人としてね」
「そんな……そんなこと、できるわけ……」
「普通はできない。でも、相手は資産家で、向こうの親族もグルなら話は別。それに、お姉ちゃんは身分証も印鑑も、全部お母さんに管理されてるでしょ?」
そうだ。
保険証も、通帳も、印鑑も。
「沙耶ちゃんはなくしちゃうから」と言われて、すべて母の引き出しの中だ。
「待って、朱音。意味が分からないよ。どうしてそんなことを……」
「遺産だよ」
朱音の言葉が、鋭い刃物のように空気を切り裂いた。
「遺産……?」
「この大河内って爺さん、ずっと寝たきりの末期状態なの。身寄りがなくて、莫大な遺産がある。彼が死んだら、その遺産は誰に行くと思う?」
朱音は冷たい指先で、書類の私の名前をトントンと叩いた。
「法的な妻である、お姉ちゃんだよ」
血の気が引いていくのが分かった。
指先が冷たくなり、震えが止まらない。
「つまりね、お父さんとお母さんは、お姉ちゃんを『遺産の受け皿』として、その老人に売ったの」
売った。
その単語が、重い鉛のように胃の腑に落ちた。
「あんなに優しくしてくれたのは……私が大切だからじゃ、ないの……?」
「大切だからだよ。ただし、娘としてじゃなく、数億円の価値がある『通帳』としてね」
朱音は悲しげに目を伏せた。
「お姉ちゃんがもし自立して、外の世界を知って、自分の戸籍を見たりしたら困るでしょ? もし好きな人ができて結婚したいなんて言い出したら、この計画がバレちゃう」
「……あ」
「だから閉じ込めたんだよ。『沙耶は病気だ』『外は怖い』って洗脳して。お姉ちゃんが一生、あの部屋で何も知らずに飼い殺されていれば、遺産が入った後、お母さんたちがそれを自由に使えるから」
喉の奥から、嘔吐(えず)きが込み上げてきた。
走馬灯のように、この五年の記憶が蘇る。
『沙耶ちゃんは何も心配しなくていいの』
『ずっとパパとママのそばにいればいいの』
『外は危ないわよ』
あの甘ったるい笑顔。過剰なまでの世話焼き。
そのすべてが、愛情ではなかった。
それは、高価な美術品を盗まれないようにショーケースに鍵をかけるのと、何ら変わりなかったのだ。
「嘘だ……嘘だと言って……」
「これが証拠だよ」
朱音は戸籍謄本を私の手に握らせた。
紙の感触が、現実を突きつける。
私は、人間扱いされていなかった。
パラサイト(寄生虫)と呼ばれていたけれど、本当に寄生していたのは、私に群がる両親の方だったのだ。
「許せない」
朱音が低い声で呟いた。
「私のたった一人のお姉ちゃんを、道具にするなんて。……私、これを知った時、絶対にお姉ちゃんを助け出すって決めたの」
朱音は私の震える手を両手で包み込み、真剣な眼差しで私を見つめた。
「お姉ちゃん。このまま家に帰ったら、一生あの人たちの奴隷だよ。……私と一緒に逃げよう?」
その提案は、暗闇に垂らされた一本の蜘蛛の糸のように見えた。
しかし、あまりにも突然すぎる現実に、私の心は粉々に砕け散ったままで、言葉を発することさえできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます