第5話 わずかな光
朱音が出て行ってから、五年が経った。
あれ以来、妹からは一度も連絡がない。
生きているのか、どこに住んでいるのか、それすら分からないままだ。
家の中は、まるで時間が止まったかのように変わらない。
父と母、そして三十歳になった私。
奇妙なほど穏やかで、息が詰まるほど密閉された三人暮らしが続いていた。
カツ、カツ、とペンタブレットを叩く音が、静かな部屋に響く。
「……よし、できた」
私はモニターの中の色彩を確認し、小さく息を吐いた。
ソーシャルゲームのキャラクターイラスト。背景込みの一枚絵。
これが今の私の仕事だ。
三年前、ネットの掲示板で偶然見つけた募集に応募したのがきっかけだった。
最初は怯えながらだったけれど、顔を合わせずに済むメールでのやり取りは、私にとって唯一の社会との接点になった。
月収は五万円ほど。
同年代の女性からすればお小遣い程度かもしれない。
けれど、私にとっては「自分の力で得た」何よりも重いお金だった。
コンコン、とノックの音がして、返事をする前に母が入ってくる。
この「ノックは形式だけ」という習慣も、五年前と変わらない。
「沙耶ちゃん、フルーツ切ったわよ。休憩しましょ」
母は満面の笑みで、ウサギの形に切られたリンゴを机に置いた。
「あ、ありがとうお母さん。でも、今ちょうど納品前で……」
「あら、またお絵描き? 根詰めるのは良くないわよ。目は疲れてない? 肩は?」
母が背後に回り込み、私の肩を揉み始める。
その手つきは優しいが、作業を中断させるには十分な拘束力があった。
「そんなに頑張らなくてもいいのに。パパもママもいるんだから、沙耶ちゃんはお金の心配なんてしなくていいのよ」
「ううん、でも……私も少しは稼ぎたいから」
「偉いわねえ。でも、無理は禁物よ。沙耶ちゃんは体が弱いんだから」
体が弱い。
私はこの五年間、大きな病気ひとつしていない。
けれど両親の中では、私は永遠に「要介護の可哀想な娘」のままだった。
私が稼ぐことを、彼らは喜ばない。
むしろ、私が自立への意欲を見せると、不安そうに眉を寄せるのだ。
「……あのね、お母さん」
私は意を決して口を開いた。
「この仕事が終わったら、コンビニに行ってきたいんだけど」
「えっ」
母の手が止まる。
「コンビニ? 何か欲しいものがあるの? お母さんが買ってきてあげるわよ。プリン? それとも雑誌?」
「違うの。……自分で、買いに行きたいの。気晴らしに」
ここ数ヶ月、私はリハビリと称して、徒歩五分のコンビニまで一人で外出する練習をしていた。
最初は玄関から出るだけで過呼吸になりかけたが、今はどうにか、昼間の明るい時間なら歩けるようになっていた。
「駄目よ、今日は日差しが強いわ。貧血起こしたらどうするの」
「大丈夫。すぐ戻るから」
「じゃあ、お母さんも行く。車出しましょうか?」
「歩いて行きたいの。一人で」
私が食い下がると、母は露骨に悲しそうな顔をした。
まるで、私が母をいじめているかのような表情だ。
「……分かったわ。沙耶ちゃんがそこまで言うなら」
「ありがとう」
私は急いで服を着替え、逃げるように家を出た。
外の空気は、家の匂いとは違っていた。
アスファルトの熱気、車の排気ガス、どこかの家の夕飯の匂い。
それらすべてが、私にとっては「自由」の香りだった。
心臓が早鐘を打ち、すれ違う人が怖い。
それでも、私は自分の足で歩いている。
コンビニに入り、震える手でアイスコーヒーを一つ買う。
「ありがとうございました」と言われ、小さく会釈して店を出る。
たったそれだけのこと。
けれど、私にとっては大冒険だった。
「できた……」
店先の駐車場で、冷たいカップを握りしめる。
少しずつだけど、前に進めている気がした。
ふと、視線を感じて振り返った。
陽炎が揺れる道路の向こう側。
電柱の影に、日傘を差した人物が立っていた。
母だった。
目が合う。
母は私に向かってニコリと微笑み、小さく手を振った。
「ヒッ……」
喉の奥から悲鳴が漏れた。
ついてきていたのだ。こっそりと、ずっと後ろから。
私が転ばないか、あるいは――逃げ出さないか、監視するために。
私の「自由」なんて、母の手のひらの上での散歩に過ぎなかった。
リードは見えないだけで、確実に私の首に繋がれている。
私は逃げるように、俯いて歩き出した。
母は一定の距離を保ったまま、私の背中をついてくる。
この家から出るには、もっと決定的な、世界をひっくり返すような何かが起きなければ、私は一生このままだ。
絶望に近い予感を抱きながら交差点を曲がった、その時だった。
「……え?」
向かいから歩いてきた女性と、肩がぶつかりそうになる。
とっさに謝ろうとして、私は息を飲んだ。
洗練されたオフィスカジュアルに身を包み、自信に満ちた足取りで歩く女性。
かつての刺々しい雰囲気は消え、大人の余裕を纏っていた。
「――お姉ちゃん?」
その女性が足を止め、サングラスを外す。
五年分の時間を飛び越えて、懐かしい声が私を呼んだ。
朱音だった。
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