第4話 破局と絶縁


シン、と静まり返ったリビングに、和真さんが立ち上がる衣擦れの音だけが響いた。


「……帰らせていただきます」


その声は冷たく、事務的だった。


朱音が弾かれたように顔を上げる。


「ま、待ってよ和真。違うの、今の話は誤解で……」


「誤解って、何が?」


和真さんが振り返る。

その目には、軽蔑というよりも、得体の知れないものに対する「恐怖」が浮かんでいた。


「お母さんのあの剣幕、君が家で言ってる暴言……。それに、この家の空気。俺には無理だ」


「和真……」


「正直、君がこんな環境で、こんな風に家族と接しているなんて思わなかった。結婚の話は、なかったことにしてほしい」


「待って!!」


朱音がすがりつこうと手を伸ばすが、和真さんは汚いものに触れるかのように身を引いた。


そして、私と両親を一瞥もしないまま、逃げるように玄関へと歩き去った。


バタン。


玄関のドアが閉まる音が、死刑執行の合図のように響き渡った。


朱音は玄関の方へ手を伸ばしたまま、石像のように固まっていた。


私は震えが止まらない。

やってしまった。私のせいで。いや、お母さんのせいで。でも元はと言えば私が……。


「あらあら、行っちゃったわねえ」


その沈黙を破ったのは、母の能天気な声だった。


「あんなに怒らなくてもいいのにねえ。やっぱり、朱音の暴言に引いちゃったのかしら。自業自得ね」


「……」


「まあ、あんな心の狭い男の人、朱音には勿体無いわよ。ねえ、お父さん」


「そうだな。家族の事情も理解できない男なんて、こちらから願い下げだ」


両親は、まるでテレビドラマの感想でも言い合うように頷き合っている。


目の前で娘の婚約が破談になったというのに、彼らの心にはさざ波ひとつ立っていないのだ。

自分たちが「正しい」と信じているから。


「あは」


乾いた笑い声が聞こえた。


朱音が、肩を震わせて笑っていた。


ゆっくりと振り返ったその顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れているのに、口元だけが三日月のように歪んでいた。


「あはははは! 願い下げ? 何言ってんの? あんたたちが壊したんじゃん!!」


朱音の絶叫が炸裂した。


近くにあった花瓶を掴み、床に叩きつける。

ガシャン! と陶器の割れる音と水の飛沫が散った。


私は悲鳴を上げて耳を塞ぐ。


「朱音! 乱暴はやめなさい!」

「うるさい黙れ! このキチガイ共が!!」


朱音は鬼の形相で両親を睨みつけ、そして最後に――私を見た。


その視線が私を貫いた瞬間、心臓が凍りついた。


いままで彼女が向けてきた軽蔑や苛立ちとは違う。

もっと深く、暗い、純粋な「殺意」に近い憎悪。


朱音は私に歩み寄り、胸ぐらを掴み上げた。


「ひっ……!」


「お前のせいだ」


低い、地を這うような声。


「お前さえいなければ。お前がまともなら! お前が死んでいれば!! 私は普通に幸せになれたのに!!」


朱音の手が首に伸びかかる。


けれど、すぐに母が金切り声を上げて割って入った。


「やめて朱音! 沙耶ちゃんを殺す気!?」

「ああそうだよ殺したいよ! こいつは私の人生の癌なんだよ!!」


父に取り押さえられ、朱音はもがく。

もみくちゃになりながら、朱音は涙を流して叫び続けた。


「もう無理……もう限界。こんな家、一秒だっていられない」


父の手を振り払い、朱音は荒い息を吐きながら後ずさる。


「出て行く。二度とあんたたちの顔なんて見たくない」

「朱音、落ち着きなさい。行くあてなんてないだろう」

「野垂れ死んだ方がマシよ!!」


朱音は階段を駆け上がり、数分後、旅行鞄一つを持って降りてきた。


止める父の手を振り切り、靴を突っかけるように履く。

ドアノブに手をかけ、最後に一度だけ振り返った。


その目は、私だけを見ていた。


「一生、その腐った部屋でママゴトしてればいい。……一生私に関わらないで。この、パラサイト」


呪いの言葉を吐き捨て、朱音は出て行った。


今度こそ、本当に。


後に残されたのは、散乱した花瓶の破片と、水浸しの床。

そして呆然とする私と両親だけ。


私の胸には、鋭いナイフで抉られたような痛みが残っていた。


妹の人生を奪った。その事実が、重くのしかかる。


けれど、母はふぅと息を吐き、優しく私の肩を抱いた。


「大丈夫よ、沙耶ちゃん。怖かったわねえ」


母の声には、安堵の色すら混じっていた。


「これで、また静かになるわ。意地悪な朱音はいなくなったの。これからは、パパとママと沙耶ちゃん、三人だけで仲良く暮らしましょうね」


「そうだな。朱音も頭を冷やせば戻ってくるさ。それまでは、沙耶がゆっくり休めるようにしてやろう」


狂っている。


この人たちは、心の底からそう思っているのだ。


妹を追い出したことへの罪悪感など微塵もない。

むしろ、異物がいなくなって「清々した」とすら思っている。


私は母の腕の中で、ガタガタと震えた。


妹がいなくなった。

私のサンドバッグになってくれていた妹が。


これからは、この狂気的な両親の愛情を、私一人ですべて受け止めなければならない。


その事実に気づいたとき、目の前が真っ暗になった。


こうして、私の家の時計の針は完全に壊れた。


二度と動くことのないまま、ゆっくりと、私たちを消化していくのだ。


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