第3話 暴露
リビングの空気が、音を立てて張り詰めた。
「あ……はじめまして、婚約者の、和真です」
和真さんは、私の姿を見て一瞬言葉を詰まらせたものの、すぐに社会人らしい笑顔を作って頭を下げた。
その視線が、私のフリルのワンピースと、震える手元を忙しなく往復しているのがわかる。
「さ、沙耶です……」
蚊の鳴くような声しか出ない。
私は逃げ出したかった。
今すぐ二階へ駆け上がり、布団を被って震えていたかった。
けれど、背後には母が立ちはだかっている。
「あらごめんなさいねえ。沙耶ちゃん、ちょっと人見知りで。でも、とっても優しい子なのよ」
母は私の肩を抱き、和真さんの向かいの席――つまり、朱音の隣に私を座らせた。
朱音の隣。
そこは今の私にとって、針のむしろだった。
「……お母さん」
朱音が、押し殺したような低い声で言った。
「お姉ちゃん、具合悪そうだから。挨拶が済んだなら、もう部屋に戻してあげなよ」
それは朱音なりの助け舟……ではない。
一秒でも早く、この恥ずべき姉を視界から消したいという焦りだ。
私もそれに同意だった。立ち上がろうと腰を浮かす。
「あら、いいじゃない。せっかく家族が揃ったんだから」
「よくないよ! 和真さんだって困ってるでしょ!」
朱音が声を荒げた。
和真さんが驚いて朱音を見る。
普段、外では猫を被っている朱音が、こんな声を出すなんて思わなかったのだろう。
「あ、いや、俺は別に……」
「ほら、和真さんも良いって言ってるじゃない。朱音、そんなカリカリしないの」
父がのんびりと口を挟む。
この人は、場の空気が読めていない。
朱音は唇を噛み締め、テーブルの下で拳を握りしめているのが見えた。
そして、鋭い視線を私に向けた。
――消えろ。
その目は明確にそう言っていた。
「ひっ……」
私は反射的に身をすくませて、小さく悲鳴を上げた。
長年刷り込まれた妹への恐怖は、私の体を条件反射で硬直させる。
その反応を、母は見逃さなかった。
「朱音! あんた、また沙耶ちゃんを睨んだわね!」
突然、母が金切り声を上げた。
リビングに響き渡る絶景に、和真さんがビクリと肩を揺らす。
「お母さん、やめ――」
「やめないわよ! あんた、和真さんの前だからって猫被ってるけどね、お母さんは許しませんよ! さっきだって、沙耶ちゃんのこと脅したんでしょ!」
母は、私をかばうように抱きしめると、鬼の首を取ったように和真さんに向かってまくし立て始めた。
「和真さん、聞いてちょうだい。朱音ったら酷いのよ。家ではいつもこの子に向かって『パラサイト』だの『穀潰し』だのって暴言を吐いて!」
時間が、止まった。
朱音の顔から、サーッと血の気が引いていく。
「お母さん……っ、何言って……」
「本当のことでしょう! 昨日も言ってたじゃない。『あんたなんか死ねばいいのに』って! 沙耶ちゃんが何をしたっていうのよ。ただお家で静かにしてるだけじゃない!」
母の暴走は止まらない。
それは母にとって「正義」だった。
か弱い姉をいじめる、気の強い妹を告発する。
それが姉を守ることであり、母親としての愛だと信じて疑っていないのだ。
「沙耶ちゃんはね、心が繊細なだけなの。それなのに朱音は、自分が稼いでるからって偉そうにして……。お姉ちゃんの食事を取り上げたことだってあるのよ、信じられる!?」
違う、やめて。
私は心の中で叫んだ。
それを言ったら、朱音が壊れてしまう。
朱音の築き上げてきた「まともな人間」としての仮面が、私のせいで、母のせいで、粉々に砕かれていく。
私は恐る恐る、和真さんを見た。
彼は、ドン引きしていた。
朱音を見ているのではない。
二十五歳の娘を幼児のように抱きしめて泣き叫ぶ母と、
三十歳近いフリルの服を着た無言の姉と、
顔面蒼白で立ち尽くす妹。
この「家族そのもの」の異常性に、恐怖を感じている目だった。
「朱音……」
和真さんが、乾いた声で呟く。
「お前……家で、そんなこと言ってるのか? 『死ね』とか……」
「ち、違うの和真、これは……」
朱音は必死に否定しようとするが、声が震えて言葉にならない。
弁解しようにも、今の母の異常な剣幕と、私の怯え方が、それが事実であることを雄弁に物語っていた。
「ああ、可哀想な沙耶ちゃん。お母さんが守ってあげるからね。怖い妹がいなくなって良かったわねえ」
母は私の頭を撫で続ける。
その手つきは優しく、そして最高に無神経だった。
私は見た。
朱音の瞳の中で、何かがプツンと切れる瞬間を。
絶望が、どす黒い怒りへと変わっていく。
その矛先は、暴露した母へ、そして何より――その原因である私へと向けられていた。
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