第2話 婚約者が来る日


地獄のような夕食から数日が過ぎた、日曜日の昼下がり。


家の空気が、張り詰めた糸のようにピリピリとしていた。


「いい? 絶対、絶対に余計なことしないでよ」


一階から朱音の鋭い声が聞こえる。


今日は、朱音の婚約者である和真(かずま)さんが挨拶に来る日だ。


私は部屋の隅で膝を抱え、息を潜めていた。

関係ない。私には関係ない話だ。

そう自分に言い聞かせていたけれど、両親はそれを許してくれなかった。


ドンドン、とノックの音がして、返事も待たずに母が入ってきた。


「沙耶ちゃん、まだ着替えてないの? もうすぐ和真さんがいらっしゃるわよ」


母の手には、淡いピンク色のワンピースが握られている。

フリルがあしらわれたその服は、どう見ても十代の少女が着るようなデザインだった。


「お母さん……私、やっぱり無理だよ。怖い……」


「何を言ってるの。妹の晴れ舞台なのよ? お姉ちゃんが祝ってあげなくてどうするの」


母は笑顔のまま、私の腕を掴んで立たせた。

その力は強く、私の拒絶など最初から想定していないようだった。


「ほら、バンザイして。……あらあら、ちょっとウエストがきついかしら。沙耶ちゃん、運動不足ねえ」


母は私を人形のように着せ替えていく。


鏡に映った私は、年齢不相応な服を着て、顔面蒼白で震えている、ただの不気味な女だった。


吐き気がした。


八年間、家族以外とまともに話していない。

知らない男の人が家に入ってくる。

その事実だけで、心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。


「お母さん、お願い。部屋にいさせて。私が出たら、朱音だって嫌がるし……」


「朱音のことはいいの。パパも言ってたでしょう? 『家族全員』で迎えるのが礼儀だって」


母は私の髪に櫛を通しながら、うっとりとした声で言った。


「うちは仲良し家族なんだから。沙耶ちゃんもそろそろ、外の人に慣れていかないとね。これはリハビリよ」


リハビリ。


母にとって、私の呼吸困難も手の震えも、ただの「恥ずかしがり屋」程度の認識なのだ。

この通じなさが、何よりも恐ろしい。


ピンポーン――。


チャイムの音が、死刑宣告のように響いた。


私はビクリと体を跳ねさせる。


「あ、いらしたわね! 行きましょう」

「やだ……やだ……っ」

「大丈夫、パパもいるしお母さんもついてるから。ね?」


母は私の背中を押し、無理やり部屋から押し出した。


足がすくんで動かない。

けれど母は、私の腰を抱えるようにして、ずりずりと階段へ誘導する。


階下から、明るい声が聞こえてきた。


「はじめまして、和真です。本日はお時間をいただきありがとうございます」

「いやいや、よく来てくれたね! さあ、上がってくれ」

「お邪魔します……」


父の快活な声と、若々しい男の人の声。

そして、どこか緊張した様子の朱音の声。


「どうぞ。……あの、お父さん、お姉ちゃんは?」

「ああ、今お母さんが連れてくるよ。楽しみだなあ」

「え……」


朱音の声が強張ったのが分かった。


連れてくるなと言っていたはずだ。

朱音にとって、引きこもりの姉など隠したい汚点以外の何物でもないのだから。


私は階段の踊り場で立ち止まり、手すりにしがみついた。


リビングのドアが開いている。

そこから漏れる光が眩しくて、目がくらむ。


「ほら、沙耶ちゃん。笑顔よ、笑顔」


母が私の耳元で囁き、硬直する私の指を手すりから引き剥がした。


「沙耶!」


下から父が呼ぶ。


逃げ場はなかった。


母の強い力に押され、私はつんのめるようにしてリビングの入り口へと足を踏み入れた。


「――あ」


視界が開ける。


ソファーに座っていたスーツ姿の青年が、驚いたようにこちらを振り返った。


隣に座る朱音が、目を見開き、絶望と怒りが入り混じった表情で私を――いや、私の後ろにいる母を睨みつけている。


私は喉が引きつり、言葉が出ない。


ピンクのフリルの服を着た、三十路手前の引きこもり女。


その異様な姿が、和真という青年の瞳にはっきりと映り込んだ。


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