優しい妹の飼育箱 ~毒親の檻から逃げ出した私は、より快適な牢獄で暮らす~

品川太朗

第1話 静かに腐っていく家


私の時間は、八年前から止まっている。


カーテンの隙間から差し込む西日が、宙を舞う埃を照らしていた。


部屋の中は、古本と湿った布団の匂いがする。

私の世界はこの六畳間と、せいぜい一階のリビングまで。

それが、二十五歳になった私の世界のすべてだ。


「沙耶(さや)ちゃん、ご飯よー。今日はハンバーグだからね」


階下から聞こえる母の声は、まるで幼児に話しかけるように甘ったるい。


私はベッドから重たい体を起こした。


リビングに行くのは怖い。

けれど、行かないと母が部屋までお盆を持って上がってくる。

それだけは避けたかった。


ドアノブに手をかけると、じっとりと手汗が滲む。


ゆっくりと階段を降りる。

リビングのドアを開けると、そこにはあまりに「理想的」で、そして「異様」な家族の食卓があった。


「あ、沙耶。顔色が良さそうだな」


父が新聞を置き、穏やかに微笑む。


父も母も、私を腫れ物のように扱う。

決して怒らず、急かさず、ただひたすらに「優しい」。


それが私には、綿で首を絞められているように息苦しかった。


私は無言で頷き、席に着く。

私の向かい側には、三歳下の妹――朱音(あかね)が座っていた。


「……」


朱音はスマホを操作したまま、顔も上げない。

けれど、その全身から放たれる刺々しいオーラが、私の肌をチリチリと焼くようだった。


私は身を縮め、視線をハンバーグに落とす。


「ほら、沙耶ちゃん。ケチャップ、ハート型にしたのよ。可愛いでしょう?」

「う、うん……ありがとう、お母さん」

「あら、お野菜も食べなきゃ駄目よ。お母さんが切ってあげるから」


母が私の皿に手を伸ばし、ナイフで付け合わせの人参を小さく切り分ける。


私は二十五歳だ。

手も動くし、箸も持てる。


けれど、私はそれを拒絶できない。


「……キモっ」


小さく、けれどはっきりと聞こえた。


空気が凍りつく。

朱音がスマホをテーブルに投げ出し、冷え切った瞳で私を見ていた。


「いい加減にしなよ。二十五にもなって、ママに野菜切ってもらってんの? 介護食じゃないんだからさ」


「朱音」


父が低い声で制する。

しかし朱音は止まらない。


「なに? 本当のことじゃん。ねえお姉ちゃん、恥ずかしくないの? 私が働いて入れた食費で食べるハンバーグは美味しい?」


美味しいわけがない。


喉の奥で、肉の塊が砂利のように変わる。

私は箸を握りしめたまま、俯くことしかできない。


言い返せない。朱音の言うことはすべて正しいからだ。

私は働かず、家事もせず、ただ生かされているだけの穀潰しだ。


「ごめんなさい……」


蚊の鳴くような声で謝ると、朱音は鼻で笑った。


「謝るなら死ねばいいのに。あんたみたいなのを何て言うか知ってる? 寄生虫(パラサイト)だよ。うちの養分を吸って、ただ太っていくだけの害虫」


「朱音!!」


バンッ、と母がテーブルを叩いた。


普段は温厚な母が、鬼のような形相で朱音を睨みつけている。


「お姉ちゃんになんてことを言うの! 沙耶ちゃんは今、充電期間なのよ。傷つきやすいんだから、そんな酷いことを言ったら駄目でしょう!」


「そうだよ、朱音。お前も仕事で疲れているのは分かるが、家族への思いやりが足りないぞ」


父も深く溜息をつき、私に視線を向ける。

その目は慈愛に満ちていた。


「沙耶は何も気にしなくていいんだぞ。ゆっくり、自分のペースで治していけばいい。パパもママも、いつまでも待ってるからな」


違う。

そうじゃない。


朱音は信じられないものを見る目で両親を見つめ、次いで私を睨んだ。

その目には明確な憎悪と、そして軽蔑があった。


「……狂ってる」


朱音はガタリと椅子を鳴らして立ち上がった。

「こんな空気で飯なんか食えるかよ。吐き気がする」


ドタドタと足音を立てて、朱音は二階へ上がっていった。

バタン、とドアが閉まる音が響き、リビングに再び静寂が戻る。


「ごめんね、沙耶ちゃん。朱音ったら、仕事でイライラしてるのよ。気にしないで、たくさんお食べ」


母がニコニコと笑いながら、私の皿にさらにブロッコリーを乗せる。


私は、震える手で箸を動かした。


この家は腐っている。


優しさという名の防腐剤漬けにされて、私という人間が、そして家族という形が、静かに、ドロドロに腐っていく。


それでも私は、ここから逃げ出すことさえできないのだった。


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