第3話 届かないラブソング

『ON AIR』のインジケーターが赤く点灯した。  

それは、世界と繋がった合図だ。    

一瞬、部屋の空気が張り詰めた気がした。  

俺はマイクに向かって、一度軽く咳払いをする。

この動作は、何百回とやってきた配信前の儀式のようなものだ。

喉の調子を整えるという意味もあるが、それ以上に「今から喋るぞ」と自分自身のスイッチを入れるために必要だった。


「あー、テステス。……マイク、入ってますか?」


第一声。  

自分の声が、ヘッドホンを通して少し遅れて耳に戻ってくる。  

音質は悪くない。ノイズも乗っていない。  

だが、返事はない。  

当然だ。コメント機能はロックされているし、そもそも誰かが聞いているという保証もない。  

目の前にあるのは、無機質に波形を描き続ける真っ黒なウィンドウだけだ。


「……ま、聞こえてるってことで進めますね」


独り言を呟くように、俺は配信をスタートさせた。  

本来なら、ここで「こんばんは!」と元気に挨拶し、「初見さんいらっしゃい!」と盛り上げるところだ。  

けれど、誰もいない空間に向かってハイテンションで叫ぶのは、なかなかに精神力を削られる。

だから俺は、深夜ラジオのパーソナリティのような、少し低めのトーンで話し始めた。


「初めまして。……いや、『初めまして』でいいのかな。それとも『こんばんは』かな。時差とかあるかもしれないし」


軽く笑ってみせるが、やはり反応はない。  

まるで深海に向かって話しかけているようだ。

自分の言葉が、暗い海の底へ吸い込まれていく感覚。  

だが不思議と、嫌な気分ではなかった。  


いつもの配信なら、必死にコメントを拾おうと目を皿のようにして画面を凝視し、数字の増減に一喜一憂していた。  

けれど今は、何も見えない。  

見えないからこそ、自由に喋れる。


「俺の名前は『No.a(ノア)』です。日本の……まあ、とある田舎町から配信してます」


自己紹介。  

何を話そうか迷ったが、ありのままを話すことにした。

どうせ誰も聞いていないなら、見栄を張る必要もない。


「普段は……ごく普通の、しがない大学生をやってます。もうすぐ卒業なんですけどね。就職活動とか、将来のこととか、いろいろ考えなきゃいけない時期で。正直、ちょっと疲れてて」


マイクの前で、少しだけ本音をこぼす。  

リアルな友人にこんな愚痴をこぼしたら、「お前だけじゃないよ」と諭されるか、「飲んで忘れようぜ」と流されるのがオチだ。  

でも、ここなら誰も批判しない。

ただ、電波に乗せて吐き出すだけだ。


「そんな現実逃避のついでに、こうやってマイクを握ってみました。神様の気まぐれで繋がった回線らしいんで、もし万が一、誰か聞いてくれている人がいたら、奇跡だと思って付き合ってください」


さて、と俺は話題を切り替える。  

身の上話ばかりしていても暗くなるだけだ。

時間は十五分しかない。  

マウスを操作して、用意しておいたプレイリストを表示させる。


「今日は初回なんで、俺の好きな曲を一曲だけ紹介して終わろうと思います。俺、音楽が好きなんで」


選んだ曲のタイトルを読み上げる。  

日本の男性シンガーソングライターが歌う、ミディアムバラードの名曲だ。

 

「この曲は……そうだな。男目線のラブソングなんですけど」


曲の解説を挟む。DJ気取りで。


「歌詞がすごくいいんですよ。好きな人のことを、一生かけて守り抜くっていうか。不器用な男が、精一杯の言葉で愛を誓う……みたいな。ちょっとキザで、聞いてるこっちが照れくさくなるような歌詞なんですけどね」


俺は少しはにかみながら語った。  

『君を守りたい』。  

『悲しみから救い出したい』。  

『世界中を敵に回しても、俺は君の味方だ』。  


そんな、ベタで王道なフレーズが詰まった曲だ。  

今の時代、少し古臭いかもしれない。

草食系だの絶食系だのと言われる俺たちの世代には、重すぎる愛かもしれない。  

でも、俺はこの曲が好きだった。

男なら、いつかこんな風に大切な誰かを守ってみたいと思う。

そんな男のロマンが詰まっている気がするからだ。


「男って、やっぱりどこかで『守りたい』って思ってる生き物なんですよね、多分。……まあ、俺みたいなのが言っても説得力ないですけど」


自虐を交えて笑う。  

そして、再生ボタンにカーソルを合わせる。


「それじゃあ、聴いてください」


クリック。  

優しいピアノの旋律が、イントロとして流れ始めた。  

俺はマイクのフェーダーを少し下げ、楽曲の音量を上げる。  

ヘッドホンの中が、美しいメロディで満たされていく。


俺は椅子の背もたれに深く体を預け、目を閉じた。  

ボーカルの、甘く切ない歌声が響く。  

『愛してる』という言葉が、メロディに乗って紡がれる。


いい曲だ。  

何度聴いても、心が洗われるような気がする。    

俺は薄目を開けて、モニターを確認した。  

波形だけが規則正しく揺れている。  

『COMMENT』の欄は、相変わらずグレーアウトしたままだ。  

『VIEWER』の数字も見えない。    

画面の向こう側は、静寂そのものだ。  

何の反応もない。  


まあ、いいさ。  

俺は改めてそう思った。  

一人で好きな曲を流して、一人で満足する。  

それはそれで、贅沢な時間だ。  

誰かの顔色を伺って、流行りの曲を無理して聞くより、よっぽど楽しい。


曲がサビに入り、盛り上がりを見せる。  

『君を守る盾になる』。  

力強い歌詞が、俺の鼓膜を震わせる。  

俺はリズムに合わせて、小さく指で机を叩いた。


やがて、曲はアウトロを迎え、静かにフェードアウトしていった。  

再び、俺の声だけの時間に戻る。


「……お届けしたのは、俺の大好きな一曲でした」


少ししんみりとした空気を払拭するように、明るく振る舞う。


「どうでしたか? ……って聞いても、感想は見えないんですけどね」


皮肉ではなく、事実として口にする。  

時計を見ると、配信開始から十四分が経過していた。  

残り一分。  

ぴったりだ。


「そろそろお別れの時間みたいです。十五分って、意外とあっという間ですね」


名残惜しいような、ホッとしたような気分。  

とりあえず、放送事故もなく完走できそうだ。


「また来週、気が向いたら……というか、神様の回線が繋がってたら、やろうと思います。もし暇な人がいたら、また覗きに来てください」


俺は画面に向かって、見えない相手に手を振った。


「それじゃあ、おやすみなさい。No.aでした」


バイバイ、と軽く告げて、俺は『ON AIR』ボタンをもう一度クリックした。  

緑色のランプが消灯し、赤に戻ることもなく、インジケーターの動きが完全に停止した。  

『DISCONNECTED』。  

切断完了の文字が表示される。


「……ふぅー」


大きく息を吐き出す。  

ヘッドセットを外し、机の上に置いた。  

終わった。  

何も起きなかった。  

バズることもなく、炎上することもなく、ただ静かに始まり、静かに終わった。


「風呂入って寝よ」


俺は伸びをして、立ち上がった。  

肩の凝りをほぐしながら、部屋を出る。    


俺は知らなかった。 知る由もなかった。


俺が「誰もいない」と思っていた画面の向こう側で。  

俺が「キザで照れくさい」と笑ったあの歌詞が。     

たまたま配信を見ていた、十数人の女性たちの心臓を、どれほどの威力で撃ち抜いてしまったのかを。    

静寂だと思っていたあの時間は、実は嵐の前の静けさですらなかった。  

それは、世界が騒ぎ出すまでの、ほんの僅かなタイムラグだったのだ。

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