〈首の行く先〉
真白な画板の上を黒い筆が動く。〈
冬梧は絵のことに疎いので月古が何の筆を使って、何色の絵具を使い、何の油を用いているのか分かっていない。分かっているのは目の前で理市の形が出来上がっていくことだけだった。最初はただ一色の絵具だけが置かれた画板の上に色が増える。曖昧な形が徐々に人の形となり、今では理市と分かる人の絵が出来上がっていた。
月古が絵を描いている間、音はなかった。不思議なのは――においすらもない。絵に疎い冬梧でも何らかのにおいがあるのは分かる。だけど、何ひとつとして気に障るようなものがないのだ。まるで最初から意図して排除されたかのように。
時折、月古が手を止めて理市の方に顔を向けている様子を、冬梧は月古の後ろから眺めていた。
月古が理市の目に碧を落とした時、絵がぐやりと歪んだ。冬梧は自分の目がおかしくなったのかと目を瞬かせた。しかし、絵が歪んだままだ。何度目を瞬かせても理市の顔がぐやりと歪んでいる。
がたん、と音がして冬梧は顔を上げた。理市が椅子の背もたれにもたれかかり、首を前に垂れて気を失っている。
「動かないで」
理市に駆け寄ろうとした冬梧の体は月古の声ひとつで動きを止めた。
「出来ました。始まりますよ」
月古が振り返って冬梧を見上げた。あの目だ。穏やかな表情にも拘らず、冬梧を見つめる彩雲のような瞳は底知れぬものを湛えている。ゆらり、と彩雲のように色が交じり合い、それても決して一つになることのない色が冬梧を見つめている。
そうして微笑んだ月古は冬梧から顔を背けると、描いたばかりの絵に自分の手のひらをのせた。
じわ、と月古の手が色を吸い取るように鮮やかに滲む。彩雲のように様々な色の入り交じる手の甲を冬梧は不思議なものを見るような感覚で眺めていた。節のない滑らかな白い手の甲に様々な色が透けては消える。
――愛しい。
その手の甲から、いや、手の下の絵から――理市の声が聞こえた。
月古が絵から手を離すと、絵の面――理市の顔から白いものが浮き上がった。そうして鼻、目、口……と出てきた顔は理市ではなく女のものだった。閉じたままの目は長く密集して生えている濡れた睫毛が目立つ。
――ああ。こんなにも、愛しいのに。
次に聞こえた声は女のものだった。絵の中から女の長い髪がさらりと流れるように出たかと思えば、次に出たのは首だった。白く細く――長い、長い首だった。
長い首は絵の中からするすると出でて伸びていく。
女は顔を動かして部屋の中を観察している様子だった。棚、緞帳、気を失っている理市を一瞥した女はサンルームの開け放たれたままの窓を見つけるや、首を伸ばして外に出てしまった。
「冬梧様! 行きましょう!」
呆然としていた冬梧を我に返らせたのは月古の声だった。月古は画板を手にサンルームの開け放たれたままの窓から外に出た。冬梧は月古を追いかける形で外に出た。
中庭を通り、裏門から住居地区の通りを女の首を追いかけて走る。人の流れは多いというのに誰も飛ぶ首を見て驚きもしない。むしろ見えていない様子だった。
首はぐんぐんと飛ぶ。住居地区から博物館、美術館の立ち並ぶ地区に入った時、冬梧は後ろを見た。絵を持った月古が顔を真っ赤にしながらよたよたと走っている。
「はっ……先、に、行って下さ……」
月古は息も絶え絶えに声を上げている。冬梧は月古の元に駆け寄った。
「なんで。さ、さきにいっ……」
「失礼します」
「え?」
真っ赤な顔で目を丸くする月古を冬梧は持ち上げると肩に担いだ。
「え、ええ?」
戸惑う月古をそのままに冬梧は首の飛ぶ方向へと走る。すれ違う人が驚いて自分達を見ていたが構わなかった。好奇心の目が注がれる中で冬梧は走り続けた。
「ははははっ早い! 早いですね」
耳元で月古が楽しそうに笑う。朗らかに笑う声につられて自分が笑みを浮かべていることに冬梧は気付かないまま走った。
博物館、美術館の立ち並ぶ地区を抜け、軍人と文筆家が住まう地区へと入っていく。煉瓦造建築と木造建築の入り交じる目にも鮮やかな通りは洋館、擬洋風建築、本棟造などの立派な建物が並んでいる。女は長い髪を風に揺らしながら先へ先へと飛び、そうしてある屋敷の前で止まった。
女は屋敷を見上げたかと思えば、首を伸ばして屋敷の窓から中へと入ってしまった。
冬梧は女の首が繋がる屋敷の前で立ち止まった。擬洋風建築の大きな屋敷の前で月古を下ろした冬梧は、表札を見て固まった。
「冬梧様。早く入りましょう」
すっかり赤みの引いた顔で月古が冬梧を見上げている。冬梧は月古を見下ろした。
「ここは……帝国軍省整備局中佐、
戸惑う冬梧に月古は信じられないことを告げた。
「そうですね。さあ。入りましょう」
**
冬梧と月古が通されたのは鮮烈な赤の印象的な豪奢な応接室だった。軍では解決できない『悩み』を解決するという月古は荒巻丙三の悩みも同様に解決していたらしい。
「月古様。その節は大変にお世話になり申した。おかげで毎日眠れております」
そう言って笑ったのは荒巻丙三であった。赤い革張りのソファーに体を沈めて座る丙三は年を重ねた指を組みながら寂しそうに笑んだ。
「毎夜毎夜、死んだ妻が首を伸ばして私を見つめるのは怖ろしくもありましたが、それがなくなったらなくなったで寂しいと思うのですから私が身勝手な人間ですよ」
そう言った丙三の首には――首を伸ばした女がいた。
だが女には歯がない為に噛むというよりは――と冬梧は思わず目を逸らした。生々しいのだ。濡れた睫毛が、濡れた口が、歯のない口で首を食らい尽くそうとする様が女の儚げな容貌も相まって怖いよりも生々しさを感じさせる。
「荒巻様。あの後、首はなんともないですか?」
「は――」
驚きに先紡ぐ言葉を失った丙三は目を大きく開いて月古を見ている。
冬梧は丙三から隣に座る月古に視線を移して、そして息が止まった。
――目が、笑っていない。
月古は穏やかにも見える顔を丙三に向けたまま、手元の絵に触れている。絵に触れた手の指先は彩雲のように光を孕みながら輝いている。
「荒巻様。あなたは妻が首を伸ばして自分を見つめると言いました。でも、本当はあなたの首に噛みついていた。噛み千切って殺そうとしていた」
その口から紡がれた言葉に硬直したのは丙三だった。丙三の笑みを浮かべていた口が痙攣するように震え、驚愕の表情を浮かべる顔がみるみるうちに青くなる。
「何故、それ、を」
知っている、と丙三が戦慄く。
だが冬梧は――何故、月古がそれを知っているのか、分かっている。
――どうして、どうして殺したのです。どうしてわたくしを、殺したのです。
丙三の首を食む女の声が聞こえる。歯のない口で丙三の首を食みながら恨み辛みを口にする。
――憎い。憎い。冷たい土の下に生きながらに埋められたこの恨みをどうして忘れられようか。ああ。わたくしはただ、あなたの下に嫁いだだけだというのに。愛していたのに。
「でも、歯がない為に叶わなかったのでしょうね。荒巻様。あなたの奥様は今もあなたの首に噛みついていますよ」
丙三の首を女が、丙三の妻だった女が食む。青ざめた丙三がソファーから立ち上がってがなり立てた。
「貴様! 俺に言ったではないか! 妻はもう、ここに来ないと!」
冬梧は目を開いて月古を見た。月古は絵に触れたまま、笑んでいる。彩雲のように様々な色を湛える目は笑んでいない。
「ええ。来ないと言いました。――あなたの奥様だった魂は」
瞬間、冬梧は勝手に体が動くのを感じていた。立ち上がり、軍靴のままテーブルの上に乗る。そうして体の向きを変えて驚きに目を開く丙三を背に――腕の側面を前に突き出した。目の前に人の――理市の顔があった。
理市に腕を噛まれたまま、冬梧は月古を見た。月古は彩雲のように輝く瞳を丙三に向けている。
「荒巻様」
月古が穏やかに名前を呼ぶ。絵に触れたままの指先から手の甲、手首が彩雲のように煌めきながら滲み広がる。
「私は最初に申し上げました。どのような因業を前にしても、その結果を受け入れていただきたい、と」
月古は絵に手を添えたまま、立ち上がった。
「荒巻様。罪を認めて生きるのと、罪を認めずに首を噛み千切られるのと……どちらがいいでしょうか?」
冬梧の背後で丙三は力なく目を閉じた。
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